街中の思いがけないところにあります。
元寇防塁(西新地区) / / .
普通に住宅街にありました。
この先は海だったんだ。
と正直驚きました。
埋め立てすごいな福岡県。
ここが海岸だったんですね。
蒙古襲来に備えて作ったんだと改めて当時の人たちの営みに思いを馳せることができます。
福岡市立博物館の開館まで時間が余ったので、寄り道しました。
写真の通り防塁しかありません。
ベンチぐらい設置すればいいのに。
初めて目にして感激です。
姪浜の方は、何回も訪ねていますが。
よくぞ日本を守ってくれたと。
元寇、明治維新、敗戦と、日本の危機を乗り越えて、今があることを感謝です。
どんなものかと見に行きましたが、予想よりヘボかった。
まあこれを見てから博物館の常設展にいけば詳しく知れます。
通りすがらにどうぞ。
歴史の教科書に載っているからといって、その場所を訪れても必ずしも感動に結び付かない。
石塁、つまり一見すれば石垣が並んでいるだけ。
けれども文化財としての価値は非常に高い。
有名な場所と観光地としての価値が必ずしも一致するわけではない。
防塁以外何も有りません。
雨も降っていたので、観光客は皆無。
シーズンでも少ないかもしれませんね。
近くにサザエさん通りなるものが有ります。
西南学院大学体育館の側にある元寇防塁遺跡です。
大部分土の中にあるので、ぱっと見には大したものに見えません。
しかし!ここで周囲を見渡し、ここが当時の海岸線だったということをしっかり頭に焼き付けて、今度は隣の西南学院大学1号館に行ってください。
そこに発掘された元寇防塁の全体像が移設・復元されて展示されています。
それで当時の状況を把握してください。
リーフレットもあるので理解の助けになります。
当時の国防の最前線だった防塁を、実感を持って体験することが、歴史体験です。
歴史を感じ思いを馳せる場所ではあるが少しショボい感じも否めません。
福岡県下トップ校の修猷館高校の裏手にひっそりとある元寇防塁。
言われなければあまりわからない場所にあります。
福岡市周辺には防塁跡が数多く存在し、よく教科書にある防塁でない点に注意して下さい。
この場所で当時の中国、モンゴル、朝鮮連合軍と日本軍が衝突したのだと思うと感慨深いです。
西南学院大学キャンパスのはずれにひっそりとある。
木立に囲まれているため、注意して探さないと見落とす恐れがある。
夜間に訪れざるを得なかったのでこちらにも問題はあったが、防塁の周囲にはライトひとつなく、何がなんだか分からなかった。
元寇神社は確認できたので手を合わせてきたが、防塁の本体に関しては明るい時間に行かないと観察することは不可能だと思う。
LEDライトひとつでも点灯してくれると訪問者としてはありがたいのだが。
コロナ対策(メンタルヘルス)の為、訪問参拝しました。
蒙古襲来にあたって,文永・弘安の両役とも,たまたま暴風雨によって,敵船が退却した。
この時期は,神国思想が急速に広まっていたので,この国難を除いたのは,伊勢の神による神風のおかげだと考えるようになり,後世に強く影響した。
博物館に行く途中に立ち寄りました。
住宅地の中にある公園のような所?にあります。
北側には学校? 。
楽しいところとは言えませんが、歴史的な場所を知る事ができ良かったです。
モンゴル族の王朝である元が日本に襲来(元寇)した文永の役の後に築かれた防塁、今は埋もれていますが3メートル近くの高さがあったそうです、この防塁を活かして二度目の襲来である弘安の役では博多への元軍の侵入を阻止できたそうです隣には元寇の戦没者を祀る神社が設けられています。
歴史的な遺構が間近で見学できます。
歴史が見れて良いですね。
当時の博多の街は荒廃したようですね。
モンゴルを中心に、中国も韓国も攻めて来た歴史は覚えておきましょう。
街中の思いがけないところにあります。
生の松原からずっと続いているのかと思うと、元寇は大事件だったのだと実感しました。
立て看板やチェーンでの囲いが無かったら歴史スポットとしては分からなさそうです。
それぐらい普通の場所です。
近くには地図や絵での説明がある立て看板があります。
英語と日本語の両方で書かれています。
元寇は教科書に出て来るぐらい有名なので近くに行ったら行ってみてはどうでしょうか?
歴史のロマンを感じることができます。
文永11年(l274)蒙古の襲来を受けた鎌倉幕府は、建治2年(1276)に博多湾の海岸線に石築地(いしついじ)を築いて再度の来襲に備えることにした。
これを元寇防塁(げんこうぼうるい)と呼ぶ。
元寇防塁は西の今津から東の香椎浜までの約20kmにわたって築かれた。
そのほぼ中間にあたるのが西新・百道地区の防塁である。
文永の役(1274年)では元軍がこの百道浜に上陸し、祖原、鳥飼、赤坂一帯が戦場となった。
その後この防塁が築かれたが、その構築、修理、警固番役等については知られていなかった。
大正9年、西新の防塁が発掘され、昭和44年に本格的な発掘調査が行われた。
防塁は、砂丘の上に粘土を敷いて基盤を安定させた上に、基部幅3.4mで石を積み上げていることがわかった。
また、西南学院大学第1号館の建設に当たって検出された防塁の発掘調査では、石塁の背面に約1mほどの間を置いて土塁がつくられ、二重構造であった。
西新地区の防塁は、昭和53年の発掘調査に整備され、見学できる。
また、西南学院大学で検出された防塁は、12mほど北東側の1号館内に移築復元され、公開されている。
ただし、現在埋め立てによって海浜は大きく北に移動しており、かっての百道松原の面影はまったく失われている。
名前 |
元寇防塁(西新地区) |
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ジャンル |
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電話番号 |
092-711-4666 |
住所 |
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評価 |
3.8 |
なんということもない場所であるが、つまりはこのあたりがかつての海岸線だったと言うことだ。
800年ぐらい昔に戻って、ここに立つと、目の前に広大な博多湾の海辺が広がっていたわけだ。
人間がどんどん山や川や海岸線など地形を変えてゆくんだな。