三柱神社由来 大字川原字植町の丘の上にあり,祭神は...
三柱神社由来大字川原字植町の丘の上にあり,祭神は保食神(うけもちのかみ)(稲荷様),大山祇神(おおやますみのかみ)(山の神),岡象女神(みつはとめ)(水の神)にして明治維新前郡奉行浜新五兵衛氏福岡表より移して,本陣の側なる丘の中腹に勧請せるものなりと言う。
当時丘の上は一帯の竹藪なりしが,廃藩置県後本陣等廃せらてたれば人々相謀り此の丘上を開墾して此所に移せり。
俗に新宮様と称せり。
其の後社殿の改築をなし明治二十年の頃,立花鑑載(あきのり)を祀れる字狐崎の立花社を此所に移して合祀せり。
青柳村誌より拝殿掲示板より首なし塚 立花城の七代城主,立花鑑載(あきとし)は主家である豊後大友の当主,大友宗麟(おおともそうりん)にかねてから不信を抱いていたが,永禄十一年(一五六八)春,遂に立花城で反旗を翻した。
鑑載の謀反に激怒した宗麟は,大友軍の戸次鑑連(べっきあきつら)らを立花城下に集め,山麓周辺に布陣して攻撃態勢をとった。
攻め手の大友軍は三万の大軍,守る側の立花軍は一万余,三対一の兵力差である。
三ヶ月にわたって攻防が繰り返され立花軍は炎暑の中で必死に戦ったが,その抵抗もむなしく城は陥落,城を抜け出て逃げようとした鑑載は,戸次勢に追いつめられ,遂に青柳の松林の中で自刃した。
鑑載の首は,宗麟の検分を受けるため,はるばる豊後へ送られた。
その後,村人たちによって慰霊の石塚が建てられた。
恐らく首の無い彼の遺体を埋めたものと思われる。
塚はあとに立花社に移され,現在はここ三柱神社に合祀されている。
古賀市教育委員会鳥居:「大正十一年九月吉日」「青柳町區中建之」
名前 |
三柱神社 |
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ジャンル |
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住所 |
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評価 |
3.7 |
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訪問者が少ないようで、蜘蛛の巣がすごかったです。