落ち葉が片付けられてなく、人の気配のない神社でした...
久住神社由緒祭神 健男霜凝彦神 彦五瀬命 姫神延喜式神名帳にある豊後国六座の中の直入郡一座小(伴信友全集にも記載)であるこの神社は、従来は往古から久住山頂の山神の姫神を斎祈した上宮と、桐迫村に農耕神健男霜凝彦神を社祠した下宮を併祀した神社であったが、孝徳帝の大化元乙巳年(六四五)神武帝の皇兄彦五瀬命の心霊が紀州竈山神社から飛来して桐迫村宮田鉾の木に鎮座されたので、後朱雀帝の寛徳元甲申年(一〇四四)白丹南山城主志賀義天が下宮の地にこれを勧請し従来の侭健男凝彦神社と尊称併祀したが、後奈良帝の天文二癸巳年(一五三三)平摩大明神と尊称し、後天正十四丙戌年(一五八六)島津兵乱以後仮宮であった頃は別に久住大明神とも尊称し奉ったが、霊元帝の寛文六丙午年(一六六六)日守(現在の飛森)に遷座し新宮を久住宮と尊称、肥後藩久住手水の氏神として崇敬され、その後久住神社と改称、この地方一帯の人々の氏神として現在に至っている。
後藤是美 謹撰文社前設置由緒碑ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー大分県豊後国直入郡久住村大字久住字飛森郷社 久住神社祭神 彦五瀬(ヒコイツセノ)命豊後国志には祭神「綏靖天皇」とあり、孝徳天皇大化元年紀州竈山神社より白旗飛び来りしを勧請すと(社伝)、或いはいふ桓武天皇延暦年中の創建なりと(豊後国志)、往時は嶽宮大明神と共に久住村久住山頂にありm久住嶽大明神宮と称す、大宰管内志の直入郡條下に、「国人云、直入郡ノ内にして九重と云所なり、是は肥後熊本ノ城より当国臼杵の方に通ふ道すぢなり、山中広き野原もあり、こゝのちちすぢの山に九重山の坊中とて天台派の山伏のすむ所なりといえり、此山の事大かた物に見えたる事なければ委しき事はしりがたs、是等の事はかさねて委しく考ふべし、九重はクジウと唱ふるよしなり、此地肥後国にとなれる所なるが、肥後にしてはコゝノヘと唱ふるよしなり」と見ゆ、或は古の九重は今の久住なるものか、尚考ふべし、其後朱雀天皇の寛徳元年白丹山南山の城主志賀親直、両社を桐迫村字仲村に遷して府城鬼門除の鎮護とす、その後社地狭少なるを以て、霊元天皇寛文六年当社を久住村字飛森に遷して新宮と称せり、社領は寛徳中志賀親直百石を寄附せり(肥後国志)、明治四年十月郷社に列し、現社名に改む。
社殿は本殿、中殿、拝殿等を具備し、境内九百六十六坪(官有地第一種)あり。
境内神社年徳(トシトクノ)社 八坂社 加茂神社 神宮遥拝所例祭日 八月八日会計法適用指定年月日 明治十二年六月十六日 告示第百四十三号神饌幣帛料供進指定年月日 明治四十年一月十一日 告示第九号氏子戸数 六百七十三戸崇敬者員数 未詳明治神社誌料。
落ち葉が片付けられてなく、人の気配のない神社でした。
久住町を代表する神社。
久住夏越し祭りがとくに有名です。
名前 |
久住神社 |
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ジャンル |
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住所 |
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評価 |
4.4 |
竹田市に有る神社。