朝倉橘広庭宮を訪ねて歴史散歩。
朝倉橘広庭宮跡の特徴
朝倉橘広庭宮は、斉明天皇による遷都の地として注目されています。
散策しながら歴史を感じられる、静かな山合いのロケーションです。
1300年前の大規模な皇宮があったとされる広場が残っています。
朝倉の宮跡と言われる場所柿畑が多く、遺跡調査が難しく、場所は、確定できていないが、天皇が鎮座する場所は、風水的に等しい条件があると言われる場所南に水や温泉がある場所とか太宰府政庁の南には二日市温泉がある太宰府市の観世音寺は、天智天皇の母、斉明天皇を弔うために建立されました。
それは、菅原道真公が大宰府に左遷される200年以上前のことです。
660年百済滅亡661年朝倉で斉明天皇が亡くなられた仮の墓 恵蘇神社の丘にあった746年 観世音寺建立約80年かけて斉明天皇を弔う為に建立されたと伝わる 建立開始は660年代菅原道真 太宰府の榎社で903年没牛車が遺体を運び、停まった場所にお墓を建立したのが、太宰府天満宮の始まり菅原道真公信仰は、江戸時代もずっと続いてきた明治政府の廃仏毀釈で、西郷隆盛にお願いして神社となって現在に至るのが、太宰府天満宮。
斉明天皇は、660年7月に百済が唐と新羅に滅ぼされると、難波などをえて661年5月9日に朝倉橘広庭宮に移って、百済復興の戦いに備えました。
しかし同地で7月24日になくなります。
関西、東京を除いて、都が遷宮されたのはこの地が唯一です。
朝倉橘広庭宮の地に関しては具体的な場所は特定されていませんが、長安寺廃寺跡のあったこの地には、橘広庭宮之蹟の碑があり古来有力な候補地の一つとなっています。
新羅に滅ぼされた百済の救援に向かった白村江の戦い、その前線の北部九州に向かったのは大化の改新で名高い中大兄の母斉明天皇。
しかし、この広庭宮を築くのに近隣の朝倉社の木を切ったところ宮中に鬼火が見え人々が倒れついに天皇まで崩御したのでした。
神のたたり、恐ろしや~
ここは確定した場所ではないそうですが、近くにはマデラ神社、ミナギ神社、恵蘇神社、天皇山、宮地嶽嶽古墳等がありこの近辺にあったような地域です。
静かな山合いの場所、歴史探訪発見と散歩出来ますよ。
R40929 斉明天皇ゆかりの地を訪ねてみた。
660年に朝鮮半島百済は新羅によって滅亡されたが、当時の大和王権(現在皇室の祖)の斉明天皇へ百済からの救援要請があり、奈良から九州の朝倉に大本営(政務を掌る所)となるものを設営されたが、間も無く斉明天皇はご崩御された。
朝倉市内には一時慰安室となった神社も実在しております。
白村江の戦の際、斉明天皇による遷都の地??(朝倉マテラ↔️アマテラス≒卑弥呼)
日本歴史上、都がこの地にあったことは大変重要だと考えます。
斉明天皇、天智天皇がこの地で戦ったこと、さらに斉明天皇がこの地で崩御されたこと。
再度、日本史の中で確かめていく必要があるのではないでしょうか。
斉明天皇は661年に、唐と新羅の連合軍と戦うにあたり、「朝倉橋広庭宮」を置いた。
斉明天皇崩御ののち中大兄皇子が急遽丸太のままで丸太作らせた「木丸殿」や、皇子が座って千年川にはうつる月を見て天皇を偲んだ月見の石が存在する「恵蘇宿」の対岸の平野が「橘田」と呼ばれている。
古事記や神通の禊祓祝詞のの「筑紫の日向の橘の・・・」の橘はこの辺りだろう。
草書で解く邪馬台国の謎 井上悦文p306
斉明天皇の宮跡の候補地。
奈良時代に寺院が建てられたが、今は廃寺跡となっていて、近代の標柱が建っている。
朝闇神社に隣接。
斉明天皇(皇極天皇)が斉明7年天皇自らのちの天智天皇、天武天皇である皇子を連れて百済救済のための外征でこの地に宮をお造りになったが、まもなくこの地で病になり波乱の一生を終えている。
ここがその地であると言われている。
しかし、定かではない様だ。
朝倉市を知れば、今まで知らなかった歴史にふれる機会が増えました。
周りは果樹園などに囲まれた跡地です。
自家用車で来なければ国道からは辿り着けませんね。
小さいですが駐車場有りなので、近くを訪れた時にはオススメです。
朝倉橘広庭宮の比定地はここ以外に福岡県朝倉市の地(須川、宮野、山田の各地区、あるいは杷木志波)朝倉神社(高知県高知市朝倉)とされている。
朝倉橘広庭宮の所在地は現在の福岡県朝倉市の地とされるが、具体的な場所は特定されていない。
朝倉市大字須川には奈良時代の寺院跡である長安寺廃寺跡が残っており「橘廣庭宮之蹟」の碑が建てられている。
山田の恵蘇八幡宮にも「木の丸御所の地」の碑文がある。
高知県高知市朝倉丙にある朝倉神社の社伝では、朝倉橘広庭宮は同社にあたるとしている。
また同社では、社殿背後に立つ「赤鬼山」が『日本書紀』に記述のある「鬼が天皇の喪の儀式を覗いていた山」であると伝えられる。
中央の石碑が目立つだけで、特になにもない広場だけど、1300年前の当時の橘広庭宮は、近所の天子の森も含めて、相当な広さがあったのだろうと想像出来ます。
地元の伝承ではここから200mほど南西の天子の森という場所に朝倉橘広庭宮があったそうだ。
まあ現在のように細かく区画されていたわけでもないので、この周辺一帯がそうだったのだろうと思わせる地形・立地である。
斉明天皇や中大兄皇子らに思いを馳せることの出来る場所で来訪時は桜が慰めるかのように見事に咲いていた。
麓に無料駐車場あり。
この地に斉明天皇、中大兄皇子(天智天皇)、大海人皇子(天武天皇)、鸕野讚良の皇女(持統天皇)、草壁皇子、大津皇子など飛鳥時代を代表する人物がいたと思うと感慨深い。
669年、日本が新羅と戦うために、女帝の斎明天皇が遷都させて自ら宮殿を構えたのが、この朝倉橘広庭宮と言われています。
奈良時代に長安寺という寺が建てられた場所でもあります。
斎明天皇はこの地で亡くなられてしまいました。
赤鬼が天皇の儀式を覗き見していたとの噂があり、その赤鬼は、大化の改新で殺害された蘇我入鹿の亡霊だとも言われています。
歴史の謎が秘められた場所ですが、風光明媚なのんびりした所。
2017年7月の筑後川の洪水でどうなったのか、少し心配です。
名前 |
朝倉橘広庭宮跡 |
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ジャンル |
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住所 |
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評価 |
3.9 |
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良く手入れされているようです。