九州北部豪雨の爪跡を感じます。
山田堰と関わりが深かった故中村哲医師の功績を称える記念碑が建立されています。
朝倉ライオンズクラブさんは、中村医師がアフガニスタンに三連水車をモデルにした水車を建設された際に費用の一部を寄付され、その後も同クラブの講演会にお招きされたりと、ご縁がおありだったようです。
江戸時代に築造され今も現役で筑後川の水を堀川用水路に引き込むこちらの「山田堰(ぜき)」と、同堰をモデルにアフガニスタンでかんがい事業に取り組まれてこられた故中村哲医師。
山田堰は、中村医師が探し求めていた取水堰と出会った幸運の地だとおっしゃってあったそうです。
「一隅を照らす」<今いる場所で希望の灯をともす>中村医師が好んで使っていらっしゃった言葉だそうです。
「濁流に沃野夢見る河童かな」の句、こちらへ訪れられた際に詠まれたそうです。
中村医師は誇りに思うお一人です。
情報はネットより引用させていただきました。
🅿️は道を挟んだ公園の駐車場を利用させていただきました。
少し歩いていくと、水神社が鎮座されています。
この堰は、全国唯一の傾斜堰床式石張堰です。
大きくは、南舟通し、中舟通し、水吐通しの3つの部分からなっています。
堰は、1663年に福岡藩藩士の木村長兵衛、魚住五郎右衛門により堀川用水の開削工事として着工されました。
1722年に、取水口を現在地の切貫水門として完成します。
1790年に庄屋古賀百工により山田堰が完成するという、長い年月を要しました。
この堰により周辺の農地は、大きく広がったそうです。
菱野の三連水車もこの恩恵でできたものです。
山田堰と堀川の用水路をアフガニスタンの人々に伝え、貧困に苦しむ多くの人々を救った中村さん、長年お疲れ様でした。
ゆっくりやすんてください。
中村哲先生のアフガニスタンでの活躍をYOUTUBEで見ました。
山田堰を参考にして、マルワリード用水路を建設されました。
江戸の時代から受け継がれている立派な堰です。
日本唯一の 用水路❗あの、有名な 中村哲 先生も 参考にされた水路…らしい❗筑後川の水流を 調節する 造りで 凄い❗これを見た後に、中村先生の 襲撃のニュース…哀悼の意を 表します。
山田堰は、朝倉ICの南東4.5kmほどの筑後川沿いにあります。
江戸時代前期寛文3年(1663年)筑後川から水を引き150haの新田が開発されました。
その後、更に開田をすすめ水量を確保するため取入口を変更し、岩盤をくり抜いた切貫水門となっています。
寛政2年(1790年)に至り、筑後川いっぱいを堰き止める石堰を築造し水量の増加をはかりました。
表面積7688坪(25,370㎡)の石堰も、明治7年、明治18年、昭和55年の洪水で崩壊するなど幾多の試練にあいながら、今もなお昔の面影をとどめて670haの美田を潤しています。
この山田堰の工法はペシャワール会によってアフガニスタン復興支援の灌漑用水モデルとして活用されています。
山田堰は大小の石を水流に対して斜めに敷き詰めることで、筑後川の勢いを抑えつつ用水路に水を導く。
日本で唯一の構造だ。
1790年、堀川の恩人と呼ばれる古賀百工により筑後川を斜めに堰き止める、日本で唯一の石張堰である山田堰が誕生した。
山田堰は三連水車、堀川用水とともに国指定史跡に指定されている。
名前 |
山田堰 |
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ジャンル |
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住所 |
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評価 |
4.3 |
アフガニスタン復興に命をかけた中村哲医師が何度も訪れて研究した山田堰中村哲医師の記念碑が建ててあります。