入り口の池には大きな鯉が泳いでいました。
本日オススメする神社仏閣【いいコレ】スポットは、福岡県小郡市大保にある『御勢大霊石神社(みせたいれいせきじんじゃ)』御勢大霊石神社は、主祭神は足仲彦大神(あしなかつひこのおおかみ=仲哀天皇)で、その妻である神功皇后ゆかりの神社ですなぜ、神功皇后ゆかりの神社と言われているのは諸説ありますが、神社の始まりは神功皇后2年(202年)、第14代仲哀天皇が熊襲(肥後国球磨・大隈国曽於地方の豪族)征伐に当たり、天皇の仮の御所として、この地に行宮(あんぐう)を設けました。
ところが天皇が戦線を巡視した時に毒矢に当たり、この地で崩御したと言われてます。
妻の神功皇后は兵士の士気の衰えることを恐れて喪を秘し、熊襲征伐の後、香椎の宮で発喪(死を公表)しました。
その後、朝鮮出兵にあたって、御魂代の石を軍船にのせ仲哀天皇の鎧と兜を着せて征途につき、戦勝後凱旋すると、その石を天皇の御魂代として、また朝鮮半島を守る不動石として祀ったと伝えられています。
この石は、御勢大霊石(みせたいれいせき)として社前に祀られ、立石の場所が天皇殯葬(ひんそう)の地と言われています。
社名にある「御勢」の「勢(せ)」とは「夫(せ)」の意味で、神功皇后が仲哀天皇のことを「せの君」と呼んでいたことが由来だと言われています。
拝殿前の左側に、存在感ある大きな御神木があります。
この子孫繁栄御神木は、御霊石に支えられ、楡欅(にれけやき)、もちの木、榊の三本の木が三身一体となって合体し、非常に雄大な姿をしています。
子孫繁栄、良縁結び、家内安全に御利益があるそうです。
更に、この聖地に植栽されている松の木は〝臥龍松″といい、天へと昇龍(昇運)してる縁起のいい松です。
そんな御勢大霊石神社は、延喜式(えんぎしき)内社 筑後四社の1つとされ、由緒ある神社です。
P.S.延喜式内社筑後四社の残り筑後三社は、高良玉垂命神社(高良大社)と、伊勢天照御祖神社(高良大社の境内社)と、豊比咩神社 (上津天満宮の境内社)になります。
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イオン小郡に行く道にあり、いつも気になっていました。
立ち寄りましたら、とても良い場所でした。
巨大な木がありこの神社の歴史の古さも感じました。
趣きがとてもありました◎
御勢大霊石神社延喜式神名帳筑前国四社一小社神社御紋 平安末期まで菊花菱紋祭神一座 足仲彦大神(一四代仲哀天皇)相殿四座 天照皇大神、八幡大神、春日大神、吉富大神(長栖の長者で七三八年社殿創建)当神社は元来、御井・御原両郡十九ヵ村の産土神で、明治時代までは、祭祀料を神納されていた。
由緒神功皇后二年(二〇二)創建、社記・伝説によれば第十四代仲哀天皇は熊襲征伐に当り、橿日宮の本陣より此の地に軍を進められ大保の里が白州で清浄であったので天神地祇を祀り仮陣地とし軍を指揮された。
隅々近臣を従え志気を鼓舞するため戦線を廻られた折、敵の毒矢に当られて此の地にて崩御された。
皇后は時恰も激戦中で志気の沮喪をおそれ深く秘して仮に御殯葬申し上げた。
熊襲征伐後軍を纒めて御崩御を布告し、御霊柩を橿日宮に移して発喪された。
その後三韓征伐に於て御魂代の石を軍船に乗せ、その石に仲哀天皇の御鎧及び兜を着せて征途につかれ、戦勝後凱旋されて、その石を天皇の御霊代として、大保の郷の殯葬の地に宮柱太敷立て斉き祀られ御勢大霊石と崇められた。
今、社前にある石がこれで御剣・御衣も納められ御本體所と称する。
御勢は夫にて皇后よりの尊親の称である。
境内末社○粟島神社(又の名淡島神社)御祭神 少彦名命 例祭九月十三日創建は不詳であるが和歌山市加太に鎮まります御分霊を当地に勧請する。
御祭神は医薬の祖神であり、殊に婦人の平癒、安産、子授け等、又交通、航海安全の守護神として崇められる。
○成末神社御祭神 御勢大霊石大神荒御魂無格社成末神社として龍頭内に祭祀されたのを明治四十一年六月十六日合祀許可のうえ移築。
○秋葉神社(又の名愛宕神社)御祭神 火之加具土神○牛天神社御祭神 保食大神由緒御創建は不詳であるが、別名宇迦之御魂神とも云うも「ウカ」「ウケ」は古くから食物を意味し、稲は食物の中であり、生命元である。
○恵比須神社○猿田彦神社境外末社○白鳥神社父君の神霊白鳥と化し天に昇り、願くは白鳥を得て陵域の池に養はむ。
当社も是を模して池を造り白鳥を飼いし所なり。
総称して、白鳥島と言伝へたり。
現在は年一度の御神幸は途絶えているが古昔は例大祭の御神幸の下宮として使われし所也。
その他勅使御館之跡社頭を距つる事五丁程戌亥の方にあり。
勅使下向の折招請の御館を造った処である。
御祭礼日一月一日 歳旦祭二月 初午節分祭二月六日 粥占い祭四月十五日 石祭七月三十一日~八月二日 大祓、茅輪神事、獅子舞、夏祭九月十三日 粟島神社例祭十一月十五日 七五三祭十二月十四日 例大祭以上平成十一年吉日御勢大霊石神社御本殿等○本殿六坪、幣殿十五坪、拜殿十坪。
○欽明天皇、天武天皇、宇多天皇、鳥羽天皇、高倉院の御宇再興。
○文明二年、領主筑紫貞門再建。
○天正十四年、兵火に罹り社殿、宝物等悉く焼失す。
○天和二年、領主有馬伊豫守豊範、正殿拜殿再建(現在の御本殿也)。
○其の後、造営材木は旧久留米藩より、雑費は御井、御原両郡割符を以て仕来り也。
○明治六年三月十四日、県社に列せらる。
○平成元年、御創建二十五年毎(一七七五年)の式年大祭斎行、氏子、産子等の淨財を以て御本殿、渡殿の修覆工事完成。
○平成四年、台風十七号及び十九号の被害により拜殿の修復工事完成。
○平成二十四年御本殿渡殿の銅板葺き替え及び修覆工事完成。
○平成二十五年御創建(一八〇〇年)式年大祭斎行。
神社パンフレットよりーーーーーーーーーーーーーーーーとても清々しい神社さんです。
巨木、古木の佇まいも素晴らしいです。
綺麗な神社でした。
過去の書き込みで宮司さんが入院されてましたが、現在代わりの神職の方が来られています。
御朱印あり。
イオン小郡の近くにあります。
第14代仲哀(ちゅうあい)天皇をまつる神社です。
境内には粟島神社などの末社があります。
天皇が熊襲(くまそ)征伐にあたっていたとき、敵の毒矢に当たり、この地で亡くなられたと言われています。
その後神功(じんぐう)皇后が朝鮮に出兵するとき、御魂代(みたましろ)の石を軍船にのせ仲哀天皇の鎧と兜を着せたそうです。
戦勝し凱旋した後は、その石は天皇の御魂代として、また朝鮮半島を守る不動石として祀られたと言われています。
社前のご神木であるクスノキなどに囲まれた石が御勢大霊石と伝えられています。
御勢大霊石神社(みせたいれいせきじんじゃ)は、西鉄大保駅の東700mほどに鎮座している神社です。
地元の人たちには「大保神社」と呼ばれています。
式内社。
旧社格は県社です。
神功皇后2年(202年)の創祀で、第14代仲哀天皇が熊襲征伐に当たり、行宮をここに設けました。
ところが天皇が戦線を巡視した時に毒矢に当たり、この地で崩御しました。
妻の神功皇后は兵士の士気の衰えることを恐れて喪を秘し、熊襲征伐の後、香椎の宮で発喪しました。
その後、朝鮮出兵にあたって、御魂代の石を軍船にのせ仲哀天皇の鎧と兜を着せて征途につき、戦勝後凱旋すると、その石を天皇の御魂代として、また朝鮮半島を守る不動石として祀ったと伝えられています。
社名にある「御勢」の「勢(せ)」とは「夫(せ)」の意味で、神功皇后が仲哀天皇のことを「せの君」と呼んでいたことが由来だと言われています。
飛鳥時代の第29代欽明天皇9年(548年)、白鳳9年(669年)に社殿が造営されました。
平安時代中期(967年)に編纂された格式(律令の施行細則)である延喜式内社筑後四社の一つに定められました。
天永3年(1112年)、安元2年(1176年)にも社殿が造営されました。
室町時代の文明2年(1470年)には筑紫興門が再興されますが、戦国時代の天正14年(1586年)に戦火に遭って炎上、焼失しました。
しかし、その3年後の天正17年(1589年)に宝殿・拝殿・仮殿が再建されました。
明治時代は、御原郡19ヶ村の産土神で、造営は御原郡・御井郡の両郡で執り行われました。
明治29年には県社に列せられました。
一の鳥居は正徳5年(1715年)の建立で、大保地区の集落内にあります。
平成時代に入って完成した小郡市のメインストリートの七夕通りが参道を横切っています。
その際に平成10年に建立された二の鳥居の先には神池があり、石造りの太鼓橋が架かっています。
三の鳥居は明治24年の建立で、拝殿前に仲哀天皇御魂代の御霊石があります。
神紋は、平安末期までは菊花菱でしたが、八幡系であるため現在は「三つ巴」です。
御神木は、御霊石に支えられ、楡欅(にれけやき)、もちの木、榊の木が奇跡的に三身一体となり合体し、雄大に日々成長しています。
子孫繁栄、良縁結び、家内安全に御利益があると言われています。
境内にある大きなクスノキ(樹高21m・目通り幹囲6.1m)は社殿の手前、向かって左に聳えていています。
幹をタマヅタが覆い、日光を浴びて、鮮やかな緑色を呈しています。
主祭神は、足仲彦大神(あしなかつひこのおおかみ=仲哀天皇)です。
副祭神は、天照皇大神・八幡大神・春日大神・吉富大神(738年の創建者)です。
境内社の成末神社は、仲哀天皇荒魂を祀っています。
木が生えて、どれが御神体石か分かりにくくなっていますが、神社の中でも一番重要な祠になると思われます。
境内社の粟島神社の御祭神は少彦名命です。
大国主神の国土経営に協力しましたが,伯耆国淡島で粟茎に弾かれて常世国に行きました。
農業・酒造・医薬・温泉の神として信仰されています。
御勢大霊石神社のある地名が「大保」なのは、神社の宮司の父が右大臣藤原師輔で、この右大臣の唐名が大保(だいほ)だったことによるのが由来ともいわれています。
大晦日は年越しの初詣の参拝客でとても賑わい、神酒やぜんざいを振る舞っていただけます。
また、7月31日・8月1日には、地域のお祭が行われ、とても盛り上がります。
正月には先ずここへ参拝します。
神功皇后ゆかりの神社⛩️広々とした境内は立派な楠があり、かつての隆盛を感じさせます。
今日は地域のお年寄りたちが境内いっぱいを使ってグラウンドゴルフ⛳を楽しまれていてほのぼのとした気持ちになりました(^_^)
境内は良く整備されていて、池と太鼓橋が有ります。
現在世の中大変なので御朱印はやって無いとの事です。
道沿いの駐車場は、五、六台ぐらいしか停めれません。
路地から入るともう少し停めれます。
鳥居をくぐると池があり、鯉にエサをあげることができます。
たまたまでしょうが、私が行った時には失くなってました(笑)。
初詣の時期は拝殿の左手にテントがあり、そこで御朱印、御守りが購入できました。
初詣でいきました。
年明けすぐ、夜中でも少し並びます。
地元の太鼓の演奏があっていたり、御神酒やぜんざいがいただけて、とてもいい雰囲気でした。
通りに面して駐車場があります鯉の泳ぐ池に太鼓橋がありエサも売っていました境内は広く綺麗にお手入れされています宮司さまは高齢な為、御朱印は境内のご自宅に置き書きされていますしおみくじや御札、絵馬もご自宅で購入します。
宮司さんがリハビリ中との事で御朱印は頂けませんでした。
ご快復をお祈り申し上げます。
立派な龍松があります。
清らかな空気が流れていましたよ。
神功皇后伝承地仲哀天皇の御形代とした石を奉斎し、凱旋後宮柱を建て祀った。
仲哀天皇の剣と衣を納めた。
御祭神仲哀天皇熊襲との戦いで矢に当たった事を伝える。
それが元で崩御された説の根拠地となる。
仲哀天皇が前線に立ち戦っていた事、この地域が交通の要所で重要な地であった事を物語る。
境内には大霊石が祀られるがこの地域に生きた人々は武神として崇めたのだろう。
駐車場あります。
神主さん不在のため、ご朱印いただけなかったです。
入り口入ってすぐの池には鯉がいます。
眺めてると寄ってきます。
神功皇后の伝承が残る式内社です。
県道の整備で参道の雰囲気が少し変わりました。
この時代の天皇は、自ら戦場の矢が飛んでくる前線に居たのですね。
式内社 筑後國御原郡 御勢大靈石神社 (みせたいれいせきじんじゃ)御祭神:(主) 足仲彦大神(仲哀天皇)神功皇后二年(二〇二)創建。
社記・伝説によれば、第十四代仲哀天皇は熊襲征伐に当り、橿日宮の本陣より此の地に軍を進められ大保の里が白州で清浄であったので天神地祇を祀り仮陣地とし軍を指揮された。
偶々近臣を従え志気を鼓舞するため戦線を廻られた折、敵の毒矢に当られて此の地にて崩御された。
皇后は時恰も激戦中で志気の沮喪をおそれ深く 秘して仮に御殯葬申し上げた。
熊襲征伐後軍を纏めて御崩御を布告し、御霊柩を橿日宮に移して発喪された。
その後三韓征伐に於て御魂代の石を軍船に乗せ、その石に仲哀天皇の御鎧及び兜を着せて征途につかれ、戦勝御凱旋されて、その石を天皇の御魂代として、大保の郷の殯葬の地に宮柱太敷立て斉き祀られ御勢大霊石と崇められた。
今社前にある石がこれで御剣・御衣も納められ御本體所と称する。
御勢を夫にて皇后よりの尊親の称である。
入り口の池には大きな鯉が泳いでいました。
宮司様入院中の為、御朱印はいただけませんでした。
名前 |
御勢大霊石神社 |
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ジャンル |
/ |
電話番号 |
0942-75-3350 |
住所 |
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関連サイト | |
評価 |
4.2 |
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大寒の砌に参拝横側は回転寿司店、本殿後方は幼稚園に隣接していますが、清々とした空気感で不思議と広がりと奥行きがある境内に感じます本殿左側の仲哀天皇の御霊石に支えられた子孫繁栄の御神木は楡欅、もちの木、榊の木が合体して枝葉を広げ黒や赤の木の実を付け野鳥にも癒しの神社でした。