名前 |
別府遺跡/別府・折戸ノ上遺跡 |
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ジャンル |
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住所 |
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関連サイト | |
評価 |
2.3 |
1973年3月31日 宇佐の文化(3,4合併号) 宇佐の夜明け③原始時代より別府遺跡別府遺跡は駅館川の左岸自然堤防上に立地する。
その中心は国道10号線と県道長洲・安心院線が交叉する地点の南側一帯である。
かって県道の拡幅によって遺跡の一部が削除され、櫛描文のつぼなど弥生時代後期の遺物・住居跡・住居址をめぐる溝などが確認されていた。
その後今日まで、この遺跡は宇佐地方における弥生時代終末の様相を知るうえで重要な遺跡として位置づけられてきた。
しかしこの一帯は宅地化・改田工事等が進行しつつあり、遺跡の内容も明らかにされないまま破壊される危険性が増している。
このようなもとで、遺跡の遺存状態を明確にして、学術的価値を正当に認識することが急務とされていた。
このため、大分県教育委員会は昭和47年8月16日から9月2日まで、この地域の発掘調査を実施した。
調査の結果、御所木材店の南側微高地において、方形住居跡一基とその附近より約2m幅の「溝」の一部等が発見された。
恐らくこの溝はいくつかの住居址群を囲むことが考えられ、環溝集落のあとであることが推定された。
住居址のなかには復元可能なカメ・ツボなど多数の土器が発されたが、なかでもスプーン式の土器や甑(こしき)と呼ばれる、米などを蒸すための土器が特徴的であった。
石器では、稲穂をつみとる石包丁と呼ばれるもの、木の実などをすりつぶすすり石が発見され、他に炭化した米やどんぐりなどが出土した土器の特徴から、弥生時代の後期(西暦100年~300年)のなかでも中頃のものと、終末に近い形の二種数が確認された。
前者は畿内を中心に発達した櫛描波状文土器と呼ばれるもので、後者は器面整形のための条痕などを特徴とした福岡県西新遺跡の土器を標識とする、北部九州の文化系統を引くものであった。
このことは、東上田・台ノ原遺跡の前期・中期に見られた特色(既ち、畿内・瀬戸内系の文化と北部九州系の文化の相方に影響されるところの文化的性格)が後期においても以然継続していることを示している。
先進地域においては、すでに鉄器の増加に伴って石器が減少する傾向がみられるが、本遺跡においては石包丁など、多くの石器も出土している。
このことは生産性においても宇佐地方の停滞を物語るものと考えられる。