太宰府政庁を守るために築いた防御壁。
一面のコスモス畑✿今が見頃です。
たくさんの親子連れで賑わっています。
芝生広場もあるのでお弁当持参も良いかもです。
今月末で終わりそうです。
駐車場も広場に停められます。
もちろん無料。
重機がなかった時代によくあれだけの土木作業を成し遂げたなと感動させられました。
しかしあの大量の土砂をどこで採取して、どうやって運んだかも謎です。
隣国から攻められた時の防衛目的のために作られた土塁。
これだけの土塁を必要とする当時の状況や投じた労力・物資など想像を絶します。
これだけの規模の土塁を間近に見ると実感できます。
奈良時代のはじめ、唐・新羅との戦いに備えて作られた古代の城塞です。
鉄道や道路で一部壊されていますが、全体に残りが良くて見応えあり。
2度目の攻城です♪歴史的な意味合いの深い土塁のお城跡です^_^
朝鮮半島・白村江の戦いで惨敗した日本は、追手が襲ってくる事を警戒して、太宰府政庁を守るために築いた防御壁。
土手?当時の土木工事の技術の高さが窺えるそうです。
歴史を感じる場所が、現代の日常の中に存在している事がすごいなぁ。
と感じました。
秋桜が綺麗でした🎵
2021 3月25日晴れ、保育園児が楽しそうに遊んでました。
太宰府の防御線。
大和政権の壮大な国家事業。
徒歩なら問題ないが車で行くと駐車場ごなくUターンもできないので、大変です。
水城を見るなら他の場所がいいでしょう。
散歩も頼める、歴史のある場所。
水城(みずき)は、福岡県の太宰府市・大野城市・春日市にまたがり築かれた、日本の古代の城である。
城跡は、1953年(昭和28年)3月31日、国の特別史跡「水城跡」に指定されている。
白村江の敗戦後、倭国には唐・新羅軍侵攻の脅威があり、防衛体制の整備が急務であった。
天智天皇三年(664年)の唐使来朝は、倭国の警戒を強めさせた。
この年、倭国は辺境防衛の防人(さきもり)、情報伝達システムの烽(とぶひ)を対馬島・壱岐島・筑紫国などに配備した。
そして、敗戦の翌年に筑紫国に水城を築く。
また、その翌年に筑紫国に大野城が築かれた。
ともに大宰府の防衛のためである。
2019年GW訪問東側の水城館からバイパスまで歩いて往復しました堤防というか防壁ですよね城ではないかなーと思いながらこれ自体が遺構なので面白いかなと。
それに距離が尋常ではないですしね登れるところもあるので登ると、また景色が変わって楽しいです。
何度も訪れています。
水城跡はここに一ヵ所ではなく数ヵ所に存在し歴史的にとても価値はあります!お城好きの私には見所沢山あり何時間も探索していますが、見た目は草木の生えた丘です。
季節が暖かくなるにつれて草木が多い繁り森ですねッ可能であればもう少し草木を綺麗に整備すれば水城跡の遺構が解るのではないでしょうかッ!
🌸につられて訪れました。
まだ蕾がたくさんあり満開はもっと綺麗になると思います。
桜のしたでBBQ 等家族連れが沢山花見をしてました🌸🍺🌸水城駅の近くです。
2019.1.2NHKプラタモリx鶴瓶の家族に乾杯「新春SP大宰府天満宮」で紹介されました。
白村江の戦いの大敗の後、大宰府政庁の防備のために1.2kmの土塁と堀を築いたものです。
春は梅、サクラ、菜の花、ツツジ、秋はコスモス、紅葉、四季を通して楽しめます(^^)
『日本書紀』に、「・・・。
また、筑紫国に大堤(おおつつみ)を築き水を貯へ、名づけて水城(みずき)と曰う」と、記載された城である。
白村江の敗戦後、倭国には唐・新羅軍侵攻の脅威があり、防衛体制の整備が急務であった。
天智天皇三年(664年)の唐使来朝は、倭国の警戒を強めさせた。
この年、倭国は辺境防衛の防人(さきもり)、情報伝達システムの烽(とぶひ)を対馬島・壱岐島・筑紫国などに配備した。
そして、敗戦の翌年に筑紫国に水城を築く。
また、その翌年に筑紫国に大野城が築かれた。
ともに大宰府の防衛のためである。
水城は、大野城のある四大寺山(大城山)と、西側の大野城市牛頸(うしくび)地区の台地の間の、一番狭いくびれ部を塞ぐ形で造られている。
全長約1.2キロメートル×高さ9メートル×基底部の幅約80メートル・上部の幅約25メートルの二段構造の土塁で、東西の端部の東門と西門が開く。
土塁の基底部を横断して埋設された木樋(もくひ)は、長さ79.5メートル×内法幅1.2メートル×内法高さ0.8メートルである。
土塁の博多側の現水田面より5メートル下に、幅60メートル×深さ4メートルほどの外濠が存在する。
続日本100名城に選出された城(城なのか?)鉄道と高速道路により分断されてしまってる。
そのため東と西へ行くには遠回りが必要で不便。
東門跡は水城館近くにあり、水城館上には整備された展望場所があるが、それよりも奥に山上の展望台まで登ることにより水城と大野城、大宰府との関係が良くわかり一大防御ラインだったことも良くわかる。
唐・新羅連合軍に白村江の戦いで敗れた日本・旧百済(遺臣)連合軍は日本に敗走。
翌663年,唐・新羅連合軍反攻に対する太宰府防衛のため,丘陵と丘陵との間の平野に1.2キロに渡る土塁と壕を築いた。
しかし,唐はまず高麗に矛先を向け滅ぼし,新羅を圧迫し朝鮮半島全体の征服を優先したことから,この水城が使われることはなかった。
歴史の結果論としては唐の力を利用して新羅が朝鮮統一を成し遂げた形となる。
664年、唐と新羅の攻撃に備えて全長1.2kmにわたり、築かれた大宰府の防衛施設。
国指定特別史跡。
大和朝廷は、白村江の戦い(663年)で倭国・百済連合軍が唐・新羅連合軍に敗戦し、それをきっかけに唐・新羅軍侵攻の脅威に備えるため、水城や大野城、基肄城を築いた。
「水城」の規模は全長1.2kmにわたり、基底部で幅80m、高さ13mを越える人工の土塁(堤防)を築き、その博多湾側に幅60m、深さ4mの堀をつくり、水を貯えたという。
Silahkan mampir
ここは水を貯めて流すダムの役目をした所です、元寇襲来で攻めて来た時に水を一気に流して攻撃しようと思ったが元寇船が台風で沈没したので来ませんでした。
今ではポピーやコスモス畑が広賀っています。
Good weather
名前 |
水城跡 |
---|---|
ジャンル |
|
電話番号 |
092-921-2121 |
住所 |
|
営業時間 |
[月火水木金土日] 24時間営業 |
関連サイト |
http://www.city.onojo.fukuoka.jp/s077/030/010/030/001/020/2090.html |
評価 |
3.8 |
11月初旬。
コスモスが咲き乱れます👍