説明も丁寧にしてくださって、綺麗です。
一部ですがコスモスが一面咲いてとても綺麗です! 車を停めるスペースも広く家族や友人と見にこられる方多いです♪車を停めるスペースがコスモスよりも少し高いので一面綺麗に観れます!
恐ろしい規模の土塁です。
水城東門は、当時、水城には通用門が東門と西門の2ヶ所しかなく、大変厳重な施設でした。
しかし、水城は、現在は鉄道や高速道路などによってあちこちで分断されています。
水城は、664年、唐と新羅の攻撃に備えて全長1.2kmにわたり、築かれた大宰府の防衛施設です。
その規模は全長1.2kmにわたり、基底部で幅80m、高さ13mを越える人工の土塁(堤防)を築き、その博多湾側に幅60m、深さ4mの堀をつくり、水を貯えたといいます。
近隣の春日市や大野城市にも、これに連鎖する小規模な水城が残存しています。
大宰府のある北部九州は日本中で一番中国や朝鮮に近く、原始時代から盛んな交流がありました。
しかし、663年、白村江の戦いで唐や新羅の連合軍に負けたことをきっかけに、敵の侵攻に備えるため、水城や大野城、基肄城を築きました。
敵に攻められやすい博多湾の沿岸にあった那津官家も、現在の太宰府市の地に移され、「大宰府」が誕生したと考えられています。
このように「水城」は大宰府を守るのに最も重要な施設でした。
水城の築かれたエリアは東西に山が迫って平地が最も狭くなっています。
この東西の山を結んで長さ1.2kmの堤防を造りました。
その外側(博多側)に濠があって水を溜めて敵の侵入を防ぐというもので、水の城と書いて「水城」といわれました。
空き地のようなところです。
もう少し資料や見所があるといいなと思います。
わざわざいくほどのところではないかもしれません。
気になる方は近くを通ったときに寄ってみてください。
通り道で寄りました。
コスモスがチラホラ咲いてました。
丘からの眺めは良さそうですね。
白村江の敗戦に唐、新羅の侵攻に備えて造った大野城関連の遺跡だ。
資料館があるよ。
通り道で寄りました。
コスモスがチラホラ咲いてました。
丘からの眺めは良さそうですね。
全長1,2㎞におよぶ長大な水城には門が二つしか設置されておらず、その一つが東門としてここに設置されていました。
大宰府が政庁としての機能が消失するに伴い水城も存在意義を失い放逐され、遅くとも鎌倉時代には門も無くなっていた模様。
門に用いられた礎石も長い年月の間におおくは消失。
残った礎石は巨大な門に使われていただけあって巨大な石で、後に「鬼の硯石」と云われ江戸時代にはここを通る旅人のちょっとした観光名所にもなっていたそうです。
古代の技術の高さを知ることができるとともに、当時の緊張した国際情勢を感じます。
訪れてみて初めて水城の全貌が理解できました。
古来より太宰府の玄関口としての役割を担い、交通の要衝であった東門ですが、現在門跡は残っていません。
しかし、大宰大弐として赴任した藤原高遠が寛弘2(1005)年、水城に到着した際に詠んだ和歌には「岩垣の水城の関に…」とあり、往時には石垣を伴った城門があったと想像されています。
門の礎石は240×80㎝の長方形をしており、上面には円形や方形の門柱や軸受けの穴が掘りこまれています。
江戸時代の『筑前名所図会』には「東の方大路の傍に、門の礎一つ残れり、是を俗に鬼の硯石といふ」と記されています。
663年の白村江で大敗したヤマト政権は、唐・新羅の日本への侵攻に備えるため、水城そして大野城・基肄城を築きました。
『日本書紀』には「筑紫に大堤を築きて水を貯えしむ。
名づけて水城と曰う」と書かれており、その土塁の長さは約1.2km、高さ約9m、基底部の幅は約80m、博多側から内陸に向かって狭まる平地をふさぐように築かれ、濠には水が貯えられていました。
大野城市・春日市にも丘陵の谷部を塞いだ小水城と呼ばれる土塁があり、水城大堤と併せて特別史跡水城跡となっています。
白村江の戦いに敗れた天智天皇が九州の要衝大宰府防衛のために築いた水城。
この位置に石碑があります。
続百名城に登録されました。
ボランティアガイドの方が丁寧に説明してくれます。
官道の跡がそのまま現役の道なのには驚かされます。
説明も丁寧にしてくださって、綺麗です。
2017年4月オープンの史跡ボランティアの方が親切に案内してくださいます🎵
名前 |
水城東門跡 |
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ジャンル |
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住所 |
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営業時間 |
[月火水木金土日] 24時間営業 |
評価 |
3.9 |
水城の東門についての説明があった。
水城が横から良く見えた。