広大な敷地に看板があるのみ。
大宰府学校院は「府学校」と呼ばれ、「学生」「医生」「算生」200人以上が学んでいました。
彼らは西海道の六国(現在の福岡・佐賀・長崎・熊本・大分)からきた、郡司など豪族の子弟たちでした。
学校院跡太宰府市のWebによると、学校院は、西国の役人を養成する機関である。
大宰府政庁の東側にあるこの地区は、 小字名を「学業」ということから、学校院があったと考えられている。
学校院では、博士を教官として、中国の「五経」「三史」等の書物を教科書に、 政治・医術・算術・文章など、役人として必要なことを学んだ。
古代の教育システムでは、通常は国(ほぼ現在の県にあたる)ごとに国博士がおかれるが、 筑前・筑後・豊前・豊後・肥前・肥後の六国には博士はおかれず、学生は大宰府で修学した。
学生は、所定年内に必要な科目を修得した後に、試験に合格すれば役人として採用される。
天応元年(781)には約200人の学生が大宰府に集まったとの記録があり、 大宰府が学問の中心地としても機能していたことを知ることができる、との事。
太宰府市文化遺産【登録番号】F0086【名称】学業院址碑(学校院址)【所在場所】観世音寺4丁目【文化遺産情報】律令制下で中央に大学、地方に国ごとに国学が置かれ、大宰府には府学校が置かれた。
大宰府や管内諸国の官吏養成が目的。
明経(みんぎょう)・医術・算術等を約200名の人々が学んでいた。
明治末期と昭和47年(1972)に建立された2本の石碑が残っている。
名前 |
大宰府学校院跡 |
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ジャンル |
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住所 |
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営業時間 |
[月火水木金土日] 24時間営業 |
評価 |
3.8 |
大宰府政庁の東側に当たるこの地は、小字名を学業と呼ばれ、学校院があったと考えられています。
学校院は、筑前、筑後、肥前、肥後、豊前豊後の九州西国の役人を養成する機関でした。
781年の学校院では、約200にんの学生が集まったとのきろくがあります。