福岡城からの避難場所として、館を造ろうとした場所。
筑前勤王党の福岡藩家老・加藤司書が、博多港に外国船が入ってきて、福岡城からの避難場所として、館を造ろうとした場所。
慶応元年2月に、太宰府に五卿を迎え、御一新にむけて動き出した勤皇の志士達は、太宰府で、五卿と面談したが、4ヶ月後の6月にこの犬鳴御別館建築について断罪され、加藤司書をはじめとした、多くの志士が命を落とした。
乙丑の獄(いっちゅうのごく)という。
断罪された人々は、抵抗することなく、静かに最期を迎え、殿様を批判する者はいなかったという。
薩摩の西郷隆盛も、長州の高杉晋作も、筑前勤王党の人々がいなかったら、もっと早く命を落としていたかもしれない。
筑前勤王党の人々は、新しい時代の為に、犠牲となっていったが、世話になった薩長土肥の人々からは、非常に評価が低いままである。
因みに、「維新」は、明治3年に、明治新政府によって創られた新しい言葉であり、西郷隆盛や高杉晋作が活動したのは、「御一新」である。
福岡の文豪・夢野久作は、加藤司書をはじめとする筑前勤王党の人々を尊敬し、「あくまでも、御一新でなければならない」と、繰り返し、繰り返し、長男につたえている。
ダムを登って行き山手に登ると屋敷跡があります。
東海後は近隣の人達が畳や柱などを持ち出したらしく建物が残っていません。
もし残っていれば歴史的な価値があったみたいです。
福岡県が一部再建などしたら観光名所になりそうな気がします。
屋敷の見取り図とかもあったみたいです。
周辺には目玉になるような観光地がないので再建したら周辺にもお金が落ちそうな気がします。
山登りや近くに公園がり利用する人しか来ないと思います。
犬鳴御別館(いぬなきごべっかん)は国内外に対する防備のため、有事に備えて藩主をかくまうための逃げ城として築かれました。
険しい山が天然の要害となる犬鳴谷が、加藤司書(かとうししょ)の推挙によって選ばれました。
犬鳴山御別館は慶応元年(1865年)に、福岡藩勤王攘夷派中心的存在であり中老職の加藤司書の推進によって建てられた、城郭の構造を持つ館。
現在、御別館は、大手門と搦手門跡、高石垣と庭園の池跡が残っています。
搦手門周辺からは、福岡藩主黒田の家紋である「巴藤」が刻まれた軒丸瓦や、須恵焼の磁器など出土していて、宮若市の指定史跡になっています。
2021年4月6日、西山に登る途中に立ち寄りました。
不法投棄等の問題で入り口はゲートが設けられていて車は入れないようになってました。
実際に見るとすごく大きな館だったことがよく解る。
福岡藩の勤王派の家老・加藤司書が異国との開戦に備え、藩主を匿うため築いたとされています。
桜の季節に訪れたのですが、とてもキレイでした。
くだんの加藤図書なる人物の忠魂碑があります。
幕末に思いをはせるにはいい場所です。
50分ほど滞在しましたが、一人きりでしたのでのんびり過ごすことが出来ました。
薩長土肥に比べると劣りますが、幕末に足掻いているのが想像出来ます。
田んぼに向いてる土壌なのか、水を含みやすいので前日雨だったりすると、場所によっては泥濘があると思いますので注意です。
桜の季節には隠れ処的で独り占め出来るかもしれません(u003e_u003c)ただ途中の道は結構凸凹なので注意。
幕末期に藩主をかくまう為に築かれた、らしいが、一説には、幽閉するためとも。
そんな陰謀論が説得力を持つ位、山奥の何も無い所。
当時はダムも無かった訳で、街道筋からも離れている。
私が訪問した時は貸切状態でしたが、鹿のフンだらけでした。
遺構が良く残っていて、近くまで車で行ける。
紅葉時はきれいと思われる。
四方を山で囲まれていて、なるほど隠れ城だなぁって感じです。
もっと、ケモノ道みたいな所を通らないといけないのかと思っていたのですが、道路も舗装されていて、行きやすいです。
なーーーんにもありません。
ただこの秘境感が好き。
私が行った時は貸切状態でしたが歴女にはたまらない(^_^)車を停めてしばし歩きます。
ダムに隣接している為、水辺の景色と新緑がよく馴染んで気持ちのいい空間です。
歴史的史跡がここにあるとは。
雨の日に来訪。
幕末、政変に利用され多くの有能な人材が粛清されました。
福岡藩の存在感が薄くなるきっかけを作った処。
建設を指揮した加藤司書は藩主を守る為に造ったのか、それとも幽閉するために造ったのか、色々と考えさせられる個人的には重要な史跡。
御別館の建物や基礎は残っていませんが、大手門及び搦手門の石垣や池跡が残っています。
思いを馳せるには最高の場所です。
名前 |
犬鳴御別館跡 |
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ジャンル |
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電話番号 |
0949-32-3210 |
住所 |
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関連サイト | |
評価 |
3.9 |
わかりにくい場所なんで桜 独り占め🌸🌸🌸