これがかつてのボタ山だとは地元の人しか知らない。
今はもう草木の緑に覆われ、これがかつてのボタ山だとは地元の人しか知らない。
ボタが積まれたばかりの頃は、ボタが自然発火するため山が常に熱を持ち、山の麓の湧水は温泉のように温かく、入浴すらできたという。
真偽のほどは定かではないが、そんな話を聞いたことがある。
筑豊、飯塚市の故郷のシンボル‼️
明治時代以降、石炭資源を背景にして生まれた筑豊地区旧穂波町のシンボル。
炭鉱の町としてしられる飯塚市(旧穂波町)を象徴する観光スポットといえば、旧穂波町東部にそびえる旧住友忠隈炭鉱のボタ山”忠隈(ただくま)のボタ山”でしょう。
その美しさから「筑豊富士」とも呼ばれています。
ボタ山は、鉱山保安法で正式名を「捨石集積場」と呼び、坑内から採掘された石炭に混じって出てくるボタ(硬石・石炭でも燃えなくて使い道がないもの)を ピラミッド状に積み上げたものである。
三つの峰からなり、標高141.3メートル、113メートル、138.5メートル の山が並んで立ってます。
3つの峰からなるこの山に積み上げられたボタの量はなんと、10tトラック70万台分になります。
22万4000平方mもの敷地面積を有する。
炭鉱全盛期の頃はボタを頂上まで上げるトロッコ施設に不夜城の様に照明が灯り稜線が日に日に高くなるのが見られました。
現存する平地ピラミッド型ボタ山としては日本で最も大きなものになります。
現在は木々が生い茂る小高い山ですが、40年以上前までは、ボタが山の自重により中心部で自然発火して頂上部分からは煙が登り、大雪の日でも頂上部分には雪が解けて無い状態でした。
近隣の高いものは大将陣山になりますが標高112mです。
ボタ山の頂上に登ると地面は熱く、展望は嘉穂平野が一望出来ました。
行きも帰りも野犬の巣で怖い思いもしたのも少年の日の思い出です。
現在も草が生い茂り人を寄せ付けないようです。
鉱炭事故の方々の慰霊碑や無縁仏も多くあります。
忠隈炭鉱は、明治18年10月から麻生太郎氏の曾祖父である麻生太吉氏が経営に着手していたが、明治24年と翌25年に続いた大水害に より甚大な損害を受けたうえに、大断層に突き当たって出炭不能となり資金も底をついて苦境に立たされました。
それを明治27年4月、住友が麻生太吉氏から買い上げ再開発しました。
それから70有余年、住友忠隈炭鉱は昭和36年9月30日閉山。
その住友忠隈炭鉱を継承した第二会社の忠隈炭鉱株式会社も、昭和40年8月20日鉱業権を放棄。
こうして忠隈炭鉱は完全に閉山しました。
初めて見た時は「えらく尖った山だな」と思っていました。
のちに炭鉱の掘ったカスだと知った時は「よくもこれだけ積み上げたものだ」とまた関心しました。
ボタ山に登ると尖った黒い石がゴロゴロしていて転んだら大変だぞ、と誰かが言っていたのを思い出しました。
名前 |
忠隈のボタ山 |
---|---|
ジャンル |
|
電話番号 |
0948-22-3511 |
住所 |
|
評価 |
4.0 |
普通に山になってます。
ボタ山かそうじゃないか区別がつきません(笑)。