緑深いとても神聖な雰囲気の神社です?
静かな神社。
樹々に囲まれた長い階段を登った奥に社殿があります。
駐車場は社殿裏手です。
お手洗いはありません。
ここは下宮で、少し離れた場所に上宮へ至る登山口があります。
めちゃくちゃ雰囲気が良いです。
管理云々や御朱印を気にされる方はあまり好きではないかもしれませんが、大楠や苔、自然溢れる感じが好きな方は楽しめます‼️
緑深いとても神聖な雰囲気の神社です😊
鞍手町室木に坐す頭上を、九州自動車道が通る。
しかし門前に駐車場はない。
これは下宮で、宗像三女神が降臨したという六嶽の上宮は焼失し、祠のみ遺るとか。
ところが六ヶ岳とは、旭・天冠・羽衣・高祖・崎門・出穂の六峰を合わせていうもので、「六嶽に降臨」というのは精確ではなく、上宮は崎戸山にあるらしい。
高祖とは伊弉諾尊(イザナギノミコト)。
旭岳には瓊々杵尊(ニニギノミコト)の亡骸を、天冠岳に烏帽子を、羽衣岳に衣装を葬るとも聞く。
「宗像の社記に云。
筑前國風土記に曰。
宗像の大神、居せる崎門山より天降の時。
青甤(あをみ)玉を以て奥津宮の表(しるし)に置。
八尺瓊の紫玉を以て中津宮の表に置。
八咫鏡を以て邊津宮の表に置。
此の表を以て神體(みかた)の形を成し。
而して三宮に納む、即ち之(これ)を納め隠す。
因て身形(みのかたの)郡と曰。
」貝原益軒『筑前国続風土記』巻十六 宗像郡 上「崎戸山に降臨した」と読み下したのを見かけたが、漢文の「自」は起点を表し「より」と訓ずるので、「崎門山から宗像三宮に降り坐した」の意味で記したものであろう。
「瓊(に)」は「丹」つまり水銀朱を指すが、ここでは「紫玉」とする。
「青甤玉」は不明、だが八尺瓊に匹敵する青系の宝玉というと、糸魚川産の硬玉ヒスイ以外にあるまい。
宗像大社の社宝に硬玉製勾玉が存在する。
「咫(あた)」は手を開いて尺を取ること、周の咫(し)尺は18cm程度。
従って八咫は144cmにも及び、実物ではなく象徴的な表現とも考えられる。
「八」は「二」と共に古来の聖数であり、特に大なることを言うからである。
ところが前原市の平原遺跡から出土した内行花文鏡は直径46.5cm、円周146cmに及んだことから、発掘及び復元に当たった原田大六氏は、これを八咫鏡とした。
「花文」というが、太陽の形象に見える。
氏は水銀を以て鏡面を磨く古来の技術で、出土破片を眩く仕上げて観る者を驚かせたこともある。
光を放つ鏡面は、それ自体が太陽神でもあろう。
沖ノ島出土の社宝にも内行花文鏡がある。
赤の玉と青の玉と銅鏡を三宝として、宗像の三社に納め隠したというのは、朝日と海と日光の象徴であろうか。
日向市の大御神社に見るような、天照大神の姿に思われるのだが。
また、崎戸山より天降りますというのは、この山を越えて宗像へ至ったと読めなくもない。
平地を区切り土地の境界を成す山は、それ自体が神でもあった。
ここから宗像大神が神興村に移った後、今の三宮に鎮まるというから、この話は順番を飛ばしている訳だが。
宗像郡内の降臨譚は、これが唯一のようだ。
新緑の季節に参拝に、鳥居より参道が長く続く、そして階段がずうと続く、❝祭神が何と宗像三女神❞降臨田心姫命・端津姫命・市杵島姫命応神天皇・仲哀天皇・神功皇后・竹内宿袮・高竈神・闇竈神を祀る。
【由緒】この地は宗像三女神が初めて降臨したと言われるゆかりの地で、成務天皇七年の時、室木の里長、長田彦が神勅により崎門山上に神雛を建てたのが初めという。
延喜七年菊花を神社の神紋と定め、文中三年足利義満が社殿を造営し、宝永ニ年に社殿が再建された時には、黒田長清が木材を寄進した。
明治五年十一月三日に郷社となり、明治四十三年に六郷上宮(宗像三女神最初御影向の霊地)及び貴船神社と八幡神社を合祀した。
足に自身が無い方、車で行けます。
入口鳥居に地図が貼って有ります。
神秘的な場所、物静かさを感じます。
🤔😔😃
六嶽神社むつがたけじんじゃ福岡県鞍手郡鞍手町祭神宗像三神六ケ岳(むつがだけ) .標高339mを神体山とします六ケ岳に宗像三神が天降った為祭神とされています訪う人も稀なやや荒れた神さびた神社です。
よかったです。
♪ヽ(´▽`)/
崎戸岳に上宮がある。
宗像三女神降臨の伝承が残る古くからの神社です。
ここも新緑の時期の参道の雰囲気が素敵です。
名前 |
六嶽神社(下宮) |
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ジャンル |
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住所 |
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評価 |
4.4 |
十三年ほど前に見つけたパワースポット神社です。
階段が長くあるのでキツい方は脇道から来るまで上がれますが民家もあり、駐車場がないので御注意ください。