城跡と神社の融合された景色が素晴らしい。
綺麗な厳かな神社です。
駐車場も有り安心してお参りができました。
歴史的に興味の在る神社。
鞍手町と中間市の境に位置する😺 猫城 🏯■猫城をめぐる戦い(宗像と岡垣の境369メートルの城山) 【現在 月瀬八幡宮】に本拠を置いていた宗像氏が勢力を強め、遠賀川より西の方を支配下に治めるようになりました。
天正6年(1578年)には、家臣の吉田倫行に雑兵150名を付けて守らせていました。
天正8年(1580年)、糟屋郡にあります立花城の戸次道雪の計略【その計略とは】『直方より毛利が攻めれば、きっと宗像より応援が来るはずだから、その隙に守りが手薄になった宗像を攻め落とそうとの打ち合わせ』が出来ていたのに、伝達ミスがありきちんと伝わらず、その日、立花城の戸次道雪は全然動かなかった、とのことであります。
作戦失敗と言う所でしょうか。
❓高取城(直方市の福知山の下の方の山)の城主毛利鎮実の大軍1000名が押し寄せ、乗っ取らんものと猫城に迫りました。
城を守る吉田倫行は、かねがね宗像氏貞より【旗下の城に、もしの事があったら、合図に(のろし)を上げて本拠の城山(蔦ヶ岳)に急を告げよ】との事であったので、すぐに合図の(のろし)を上げ応援を頼みました。
城山より駆けつけた宗像本勢1500名と水位の上がった許斐川を挟んで両軍激しい戦いでした。
猫城側も援軍と力をあわせ力戦したので、毛利鎮実の軍は、さんざんに打ち破られ引き返したとの事であります。
⬛この猫城は、《行き山》と言い伝えられている。
それは敵が攻め登れば高くなり、城より攻め下りる時は低くなる。
❝まるで猫のようだと言い伝えが有る❞猫を真横から見ると、頭があり身体を丸めた様子です。
🅿️有り 階段80段神社前の道は赤間街道の道筋為道幅が狭いです。
(この街道を進むと長崎街道と合流する直方市の植木町へそして木屋瀬へ)以上長くなりました。
境内と道を挟んだ反対側に駐車場があります。
橋を渡って少し階段を昇って行くと本殿に辿り着きます。
手入れもされていて落ち着いて参拝出来ました。
宮司さんとお話をさせて頂くと、絵を書くのが好きで、境内に飾られている大きな絵馬だけでなく、小さいな絵馬も宮司さんが手書きで描かれているとの事でした。
社務所で惣宮社、梅安天満宮の御朱印も書いて頂きました。
不在の時でも書き置きが用意されていました。
ありがとうございました。
令和元年12月30日参拝 御朱印頂きました。
こちらは近くに有る惣社宮と梅安天満宮(書き置き)も頂けます。
この日は運が良く、宮司さんが居まして三社記帳して頂けました。
駐車場自体は広いのですが、幹線道路からが狭いので注意!
2019年 10月参拝。
前に来たときは、分からなかった社務所で今回は、御朱印を 戴きに来ました🎵インターホンで 出てきて下さり 丁寧に接して下さいました❗こちらは、3社ぶん 戴けます🎵
駐車場も有り便利です。
本殿は急な階段の上に有りますが、立派な社務所春下に有ります。
御朱印は月瀬八幡宮、惣社宮、梅安天満宮の三社が貰えます。
令和元年5月4日参拝御朱印あり(惣社宮、梅安天満宮、月瀬八幡宮)祭神:品陀和氣命、息長足媛命、比咩大神旧社格:村社寛永十五年(1638年)に筑前国2代藩主黒田忠之公が猫城址に宇佐八幡宮の御分霊を祭って創建された神社。
社名は元々は猫城八幡宮と称されていたがその後月瀬神社となり現在は月瀬八幡宮と称されている。
御朱印は宮司不在の際は書置きを授与していただける。
駐車場は道路挟んで向かいにある。
猫城跡の石はあるが、城が有った形跡は残っていない。
ここもおみくじは50円。
そしてここも遙拝所有り。
御朱印は梅安天満宮、惣社宮、月瀬八幡宮と3体あり、留守用に書き置きが置いてある。
難攻不落の猫城があった場所。
書き置きの御朱印を頂きました。
コンパクトな神社さんですが、綺麗にお手入れされて気持よくお参りできます宮司さまのオリジナル絵馬が素晴らしいです毎年、拝殿に干支の大きな絵馬も描かれていて楽しみのひとつです在宅であれば御朱印も頂けます中間の総社宮、梅安天満宮をご兼務されています。
室町時代からの城跡に建つ神社。
規模的には砦のようなサイズですが、攻めにくい城だったようです。
鳥居前の道は狭いですが、駐車場があり車でのアクセス大丈夫です。
御祭神品陀和気命・比咩大神・息長足媛命中世猫城址に鎮座する。
麻生氏後に宗像氏が領した。
城跡としては可愛らしい丘だが、周囲が湿地帯であった為に攻めるには難儀したらしい。
城跡と神社の融合された景色が素晴らしい。
江戸時代の石塔が沢山あり歴史を感じます。
近いうちに必ずもう一度行きたいです。
村社 月瀬八幡宮 遠賀郡中間町大字上底井野字廣兼祭 神 品陀和気命、比咩大神、息長足媛命由 緒 社伝に曰く、寛永十五年二月国主黒田忠之の命あり豊前国宇佐神宮より鎮祭、明治五年十一月三日村社に定めらる。
社説に曰く、寛永十五年八月筑前藩主黒田忠之底井野に別館を造営するに当たり、先づ守護神を斎き奉らむとして浅木神社大宮司佐野正安に命じ猫城跡(現在の社地)に社伝を造営し宇佐八幡宮を勧請鎮祭す、御社号を最初は猫城八幡宮と称す。
正保四年藩主は神鏡一面を寄進し、続いて藩主黒田光之宝永元年十月本殿を改築し同二年六月拝殿を造営す。
宝暦二年藩主は御供料として米七俵永代寄進の制を定む。
代々藩主の崇仰篤く郡内大庄屋より石玉垣、石灯籠、絵馬など寄進あり。
文政三年より郡役所直接米一俵掃除夫一名を永代遣はす事となれり。
例祭日 十月二十五日神饌幣帛料供進指定 明治四十年八月二十六日主なる建造物 神殿、拝殿、幣殿、神庫、鳥居、石灯籠主なる宝物 黒田藩主より献納の絵馬、神鏡等境内坪数 七百二十坪氏子区域及戸数 上底井野区一円約百五十戸境内神社 須賀神社 多賀神社 紫神社 徳満神社 貴船神社 貴船神社 稲荷神社 田守神社福岡県神社誌 上巻猫城趾(Site of Neko Cactle) 猫状は、室町時代に麻生氏の端城として築かれたといわれ、その城跡には、現在、月瀬八幡宮の社殿があります。
城跡の丘陵は、高さ約20メートルの円錐状で、すそ野には水壕の名残がみられます。
山鹿城の麻生元重と宗像大宮司氏貞は、数度の合戦に及ぶも決着がつかず、天正6年(1578)、遠賀川の東は麻生領、西は宗像領となります。
氏貞は、家臣吉田倫行に雑兵150余人をつけ、猫城に配属します。
天正8年5月、豊後の大友氏(立花道雪の説もあり)の指令を受けて、鷹取城主毛利鎮実が攻め込みますが、宗像勢は激戦の末、これを打ち破っています。
頂上からは、遙かに宗像、鞍手、遠賀が一望され、要塞の地であったことが想像されます。
「猫城」の名の由来は、定かではありませんが、「猫が背を丸めた姿に見える」とか、「敵が攻めて来れば高くなり、城より下るときは低くなり、まるで猫のようだ」との言い伝えがあります。
中間市教育委員会社頭掲示碑。
名前 |
月瀬八幡宮 |
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ジャンル |
/ |
電話番号 |
093-244-1824 |
住所 |
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関連サイト | |
評価 |
4.1 |
周辺のオススメ

☺️福岡県中間市にある神社です。
🏯猫城🏯の城内にあります。
城内には高倉健さんが奉納した猫城址の石碑があります。
本殿にはジュリーデザイナーの千手あづささんが奉納した✨きらきらの👩❤️👩カップルさんさん✨のがあります。
合格祈願👏猫招き👏猫祓い👏に参拝してくだされ。