その後社殿を建立されたものです。
静かな神社。
無人のようですが、手入れが行き届いている。
令和元年12月30日参拝 御朱印頂きました。
駐車場が見当たらないです。
第一の鳥居から車で入り角に駐車しました。
良い具合に苔が生え昔ながらの神社。
御朱印は拝殿右側の階段を降りて宮司自宅で頂けます。
ヤマトタケルにご縁の深い神社。
御神木もいい感じです。
日本武尊所縁の伝承が残る神社。
お正月に日本武尊所縁の神社にお参りしてから、北部九州の伝承地が気になり、少しずつ訪ねてます。
昔は船が着く島のような場所だったようです。
景色が、いいなぁ‼️
江戸時代に創られた三十六歌仙の木版の一部の七枚が残されています。
近くには若宮神社や宗像大社には国宝級の三十六歌仙絵巻があります。
なんかいい神社 表の方から行ったから ん? と思ったけど石段を登る辺りから お~!いいじゃん って。
浅木神社は日本武尊が熊襲征伐の帰りに寄られた霊地に第三十七代齊明天皇が筑紫下りの折に寄られ、その後社殿を建立されたものです。
足利義満筑紫下国の時武威を祈り、凱旋後大内氏に命じ社殿を再興する。
しかしながら豊後の大友氏のため社殿・社宝が火災にあう。
その後仮に小社を建て元和八年(約四百年前)里民により修復される。
御神木はこの時に植えられたと伝えられている。
黒田候が筑前を領し明治維新まで七代の国主は社参され祈願を命じられている。
このお宮の神様は尚武神で病気平癒の祈願をされ回復された方が正面の階段を寄贈された例もあります。
浅木神社々務所社前掲示版淺木神社略記 一九九八年(平成十年)四月吉日 門司明德 謹書祭 神 日本武尊、應神天皇、素盞嗚尊 昔時淺木神社の周辺は岡湊よりの内海であった。
日本武尊熊襲御征伐の帰途、臨幸神跡の霊地である。
第三十代齊明天皇亦此の淺木山に御船を寄せ給う、この御代より鎮祭し奉る古社である。
足利將軍義満筑紫下向の砌り、執事細川頼之を以て幣帛を捧げ武威を祈り、足利家より社地領三町三反歩を寄進された。
(六〇〇年前)又周防の國主大内義弘、大内義隆相続いて社殿を建立し社地を献じた。
然しながら豊後大友氏の為に宝物、縁起類多数奪取せられると共に元亀三年社殿兵火に罹り焼失、その後仮りに小社を立つ、元和八年里民修覆を加へり。
(三七六年前)黒田候筑前を領し明治維新まで七代の國主は社参を致され祈願を命ぜられている。
昔時は東光寺、西光寺、眞光庵等天台の三坊を構へて別當社増あり。
大宮司に附属せり。
東光寺、眞光庵は二百餘年前に廃亡し、独り西光寺のみ浄土宗に改宗して淺木にあり。
社地境内は山勢偉抜ならねど頂上平坦にして社殿あり静閑、周囲は古楠老杉老檜槇その他の樹木鬱蒼として枝を連ね社殿の左右に末社石灯籠、神輿舎あり、一見粛然として畏敬の念を起さしむ。
淺木神社の現在の御祭典 正月歳旦祭 一月一日 春祭祈年祭 四、五月中 祗園祭 七月十四日夜 夏越祭 七月三十日夜 秋季例大祭 十月七日夜前夜祭・十月八日例大祭 なお三年に一度七日夜神幸祭あり。
秋季感謝祭 十一月中 その他組毎の社日の宮座祭、御日待あり、明治五年五月 郷社に列せらる。
神事と芸能 流鏑馬の神事(例祭)ありしも今はなし。
神幸祭 戦前は隔年毎であったが、戦後は五年に一度実施していたが平成四年より三年に一度に改める。
神幸祭に使用の神輿は文化六年國主の命により(一八九年前)郡奉行永田伊左衛門再興せるもので昭和五十二年大修理を行ったものである。
淺木神社社務所(電話)□□□ー□□□□拝殿掲示由緒御神木 樟元和八年(約四百年前)社殿が修復された折植えられたと伝えられています。
境内の樹木には神の魂が宿ると言われています。
長年この地域を見守ってきた御神木の気を感じてみてはいかがですか樹元掲示板。
名前 |
浅木神社 |
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ジャンル |
/ |
電話番号 |
093-293-0713 |
住所 |
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評価 |
4.3 |
地域の氏神と思われるます。
大きな神社です。