拝殿の能面が何とも言えません。
ご祭神の現人大神について、略縁起に興味深いことが書いてあります。
①現人大神は意富加羅国(おおからこく)の王子である。②新羅の姫神(比咩語曽神)を追ってきた。
現人大神は、阿羅伽耶に領地を持っていた倭国の大山咋神(クマカブト阿羅カシ彦)の息子です。
姓は「多」ですが、大、太、意富など他の文字での置換えがあります。
現人大神は意富加羅国u003d阿羅伽耶で生まれた王子と書かれています。
現人大神が上陸した有名な場所は敦賀です。
それで敦賀阿羅人、これが都怒我阿羅斯等(ツヌガノアラシト)となりました。
この神さまは、審神者や舵取り(船長)として神功皇后に仕えた神さまで、東征*などでも大活躍しました。現人大神は、住吉三神の中筒男やミマキイリヒコ等多くのお名前を持つ日本書紀第十代崇神天皇です。
新羅の姫神(比咩語曽神)を追って来たのは天日槍(アメノヒボコ)です。
日本名は素戔嗚尊で、この方が新羅の王子です。境内にスサノオを祀る須佐社があります。
姫古曽神はアカル姫のことです。
🌾現人神社の伝承は、古代史をやや錯綜して伝えていますが、修正すれば日本書紀の事実部分の証拠になると思います。
🌾意富加羅国が多の加羅なら、草部吉見、大山咋神、崇神天皇が三代に渡って治めたとことになります。
🌾小郡市の七夕神社は、正式には姫古曽神社といいます。
現在のご祭神は市杵島姫ですが、元はアカル姫だったことが分かります。*神武東征の実態は崇神東征です。
神武天皇は東征していません。
階段がやけに広いです。
拝殿と本殿の間にある猿の置物が印象的でした。
御祭神は都怒我阿羅斯等命(つぬがあらしと の みこと)で宮司さんは鶴賀さん。
鶴賀氏は都怒我阿羅斯等の末裔らしい。
香春神社の宮司も、代々、鶴賀氏と赤染氏が務めている。
都怒我阿羅斯等は大加羅国(43~562年)の王子。
日本書記では都怒我阿羅斯等の別名を于斯岐阿利叱智干岐(うしきありしちかんき)としているが…、この神社の西側の山の名前は牛斬山(うしきりやま)。
眺望の良い低山で、牛斬山から福智山への縦走は登山家に人気のルートだ。
御祭神にはあげられていないが、呼び慣わされた神社名は「おさる様」で、「猿田彦大神」と刻まれた石柱がある。
そう言えば、宇佐神宮の御神幸祭で、神輿の行列の先頭は猿田彦だ。
日本書記に、崇神65年の秋7月 「任那国、蘇那曷叱知(そなかしち)を遣し朝貢す。
任那は筑紫国を去ること二千余里。
北、海を阻てて鶏林の西南に在り」という記述があり、都怒我阿羅斯等とソナカシチを同一人物とする説がある。
ツヌガアラシト=角がある人ウシキアリ=額に角があること(弁韓及び辰韓人たちが、冠の前面に角状のものがついているのを見てこう呼んだ)日本書記にスサノオがソシモリへ行ったことが記されている。
ソシモリは新羅の牛頭山。
スサノオの別名を牛頭天皇と言い、都怒我阿羅斯等と重なる。
辛嶋氏の「素戔男尊を祖とし、その子の五十猛命(いそたける)を奉戴し、新羅を経由して筑前の筑紫神社に五十猛命を祀り、次に香春で新羅の神を祀る。
そして宇佐に入って小倉山に北辰社を祀った」という「辛嶋勝姓系図」にも繋がる…。
祀神が渡来系で、採銅所を開発した人々との関わりを感じさせます。
御祭神都怒我阿羅斯等命・原田五郎義種尊都怒我阿羅斯等命は垂仁天皇時代に比咩語曽神を慕ってこの地に鎮座したという。
社殿前の石段が広いのが特徴的な社である。
広い階段いいですなー鳥居のバランスも気になりますが、拝殿の能面が何とも言えません。
広い階段いいですなー鳥居のバランスも気になりますが、拝殿の能面が何とも言えません。
名前 |
現人神社(お申様) |
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ジャンル |
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住所 |
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評価 |
4.4 |
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広い階段いいですね鳥居のバランスや、拝殿の能面が印象的です。