十二苗祖の人びとを集めて、それぞれの抱負をお訊ねに...
地蔵踊り むかし、西楽法師は、十二苗祖の人びとを集めて、それぞれの抱負をお訊ねになった。
『伊予の国、勝山城再興をはかり、今は、ひたすら隠忍自重…』 河野家の主人がこう言うと、その家来の、園田、片山、二見、柴崎、小川諸家の人びとも『主家の為には、私たちも骨身を惜しまずこうして忍んで居ります』 と力強く答えた。
『私たちは、平家再起のために…』 キッと眼を見開いてこう言ったのは、植田家と岡野家であった。
『ちよろずの波に沈みたもおた幼帝のおいたわしさと、一門の無念を思えば…』 百合野、冨田両家の人びとは、そう言ってハラハラと涙を流した。
『小松殿の守護佛を拝する度に、一日も早く、平家の世を取り返さねばと…』 登根、和田家の人びとも、ヒザを進めて言った。
それぞれの立場から、それぞれの胸のうちを聞かされ、法師の眼にも光るものがあった。
ややあって、法師は、ゆっくりと、つぶやくように言われた。
『諸氏の胸のうちは、よう判る。
しかし、河野家滅びて既に百二十年。
先帝入水からももう九十年を経ている。
諸氏も、この島に住み付かれた頃は僅か十二名であったものが、今では分家もかなり増え、島の東西南北を支配するまでになられた。
四国勝山の城も興したいであろう。
平氏一門のくやしさも、思うに忍びがたいものがある。
しかし…』 法師は、十二苗祖の人びとの意図が、今の世では、既に無駄なことであり、たとえ兵を起こしたとしても、それに呼応して来る一門は、ほんの一握りでしかないことを、時間をかけてゆっくりと説かれた。
だから、そんな考えはこの際、一切捨て去り、明日からは、子孫繁栄と島の開拓を目指して、十二氏が力を会わせて欲しい、と法師は何度も言われた。
昼が来て、夜になり、法師を囲む十二氏の人びとは、それでも議論をつづけた。
やがて朝が来て、昼から夜へと、その日も激しい論戦であったが、結局、人びとは、法師の意見に従ってみようと誓い合うことにした。
『法師、あなたの御意見に添うことに致しましょう。
今日からは、鉾を納め、刀を鍬に持ちかえて、島の為、十二家の為に私たちは力を会わせて働きましょう』 居並ぶ人びとの言葉に、法師もゆっくりうなずいて、『平家の守り本尊に、諸氏の身柄を預けて下さいますか。
これからは再興のことなど考えず、子孫と島の隆盛を誓い、十二氏が手を取り合って生きてゆくということを…』 と涙ながらに話された。
『すべて、おまかせいたしましょう』 十二氏の人びとは、口を揃えて、そう答えた。
『ああ、良かった。
本当に良かった。
これで私も、もう安心です。
それでは、明日から島の開拓に精を出して下さい』 法師の笑顔にも、十二氏の人びとにも、一すじ、二すじ、涙が光っていた。
この日のことを『十二苗祖の誓い』と言うが、その後、毎年九月に行われる地蔵祭りの踊りに、この日の会話が取り入れられることになった。
地蔵踊りは永い年月の間に広がって、下関やその近郊の盆踊りとなり、最近では『平家踊り』と呼ばれて、全国でも有名な踊りの一つに数えられるまでになっている。
その踊りのハヤシで『ヤトエー ソラエーノ ヤトエノエー』というのは、法師が『良かった、本当に良かった』と喜ばれた時の言葉で、『マカショイ マカショイ』とか『アーリャ アリャマカショーイ』というのは、十二家の人びとが『すべて、おまかせいたしましょう』と言ったことから来ている。
また。
『ヤッサ ヤッサ ヤッサ ヤッサ』というハヤシ言葉は、誓いの翌日から島の開拓に励みはじめた様子を現したものだと伝えられている。
富田義弘著「平家最後の砦 ひこしま昔ばなし」より(注)十二苗祖の誓いは、弘安元年(1278年)八月三十一日から九月一日へかけてであったと伝えられている。
地蔵祭りが毎年九月一日から三日間行われて来たのはそのせいであろうか。
この祭りは先年まで、本村交差点の近くに、三日間だけ、地蔵尊を西楽寺から移奉して行われて来たが、それも、交通と安眠の妨害が叫ばれ、現在は八月下旬の三日間を選び、本村小学校で行われている。
県道から校門に至る坂道は多くの夜店が並び、下関信用金庫本村支店前にはビアガーデンが開かれて賑わう。
小さい頃よく遊んだ所です。
平清盛衣冠塚。
名前 |
西楽寺 |
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ジャンル |
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電話番号 |
083-266-4646 |
住所 |
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評価 |
3.7 |
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