名前 |
準鉄道記念物 関釜 関門航路 下関鉄道さん橋跡 |
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ジャンル |
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住所 |
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営業時間 |
[月火水木金土日] 24時間営業 |
評価 |
3.5 |
鉄道桟橋跡航送船の碑の近くには引込み線が走っている。
その少し東は臨港道路で踏切がある。
下関市市民会館の大きな建物がおいかぶさるように威容を誇っているが、線路脇に立派な石碑が建って早くも十年近くなる。
「準鉄道記念物」と、先ほどの航送船の碑と同じように、その資料価値が記され、つづいて「関釜・関門航路・下関鉄道桟橋」と書かれている。
まず、その碑文を読んでみよう。
下関鉄道桟橋は、明治三十四年五月の関門航路、同三十八年九月の関釜航路開設に伴って、大正三年七月に本格的な岸壁を築造その歴史的な第一歩を印した。
その後、関釜航路は隆盛の一途をたどり、昭和十一年には、当時我が国の優秀船として海運界に注目された七千トン級の金剛丸型が就航した。
さらに、昭和十七年には八千トン級の天山丸型が就航し、これらの出入り船が長さ五六二メートルの大岸壁を圧し、多くの人々に愛され、親しまれた。
しかし、これら国鉄が誇った海の女王たちも、第二次大戦でほとんどが沈没、座礁するなどの大打撃を受け、昭和二十年八月、終戦とともに関釜航路は営業を中止した。
一方、関門航路は、本土・九州間連絡の幹線として、また関門市民の足として親しまれ利用されたが、関門鉄道トンネルの開通などにより、昭和三十九年、その使命を終わった。
今回、下関港が新しい使命を帯びて生まれ変わるにあたり、半世紀にわたる輝かしい業績を残したここ鉄道桟橋跡に碑を建立し、当時の、係船柱を保存して、かつての栄光の歴史を永久に偲びたい。
そして碑の裏面には、関釜航路と関門航路に活躍した往時の連絡船名が列記されている。
明治38年9月 山陽汽船会社・壱岐丸就航明治39年12月 国有となる大正11年5月 景福丸就航大正11年11月 徳寿丸就航大正12年3月 昌慶丸就航昭和11年11月 金剛丸就航昭和12年1月 興安丸就航昭和15年11月 壱岐丸就航昭和16年4月 対馬丸就航昭和17年9月 天山丸就航昭和18年4月 崑崙丸就航昭和20年8月 営業中止関門航路明治34年5月 山陽鉄道会社・大瀬戸丸・下関丸就航明治39年12月 国有となる大正3年11月 門司丸就航大正9年12月 長水丸・豊山丸就航大正14年8月 下関丸就航昭和36年6月 玉川丸就航昭和39年10月 関門航路廃止昭和44年1月 下関桟橋廃止この碑文を読んで気づくことは、関門連絡船は廃止されたが、関門航路は終戦と同時に中止されて、そのままの状態が続いているということである。
今、この辺り一帯は大きく埋め立てられて市民会館の南側には現在我が国で唯一の国際航路である関釜フェリーのターミナルがある。
しかしこれは民間資本による海の国際路線であって国鉄が再開したものではない。
やがて国鉄も…そんな気持ちを秘めて時間を待っているのだと、この碑は語っているかのように思えてならない。
それほど、かつての関釜航路は華やかであった。
明治末期から大正・昭和と戦争が激しくなるにつれて大陸進出の機運は高まり、昭和十八年には一日四往復、年間利用客は三百万人に達した。
その岸壁の名残はどこにも見られないが、今の下関駅の三番ホームの階段の下から桟橋へ向けて長い長い渡り廊下が続いていた。
人々は大きな荷物を幾つも掲げて行けども行けども続くこの廊下を急いだ。
バラック建てに近い木造の連絡船通路は、人々の急ぎ早な足音になぞらえて「トントン橋」とも呼ばれていた。
国鉄関門連絡船も多い時には一日に五十数往復も走って何万人もの乗客を運んだ。
殆ど振動の感じられない静かな船で、初めての客は「船が動かないうちに、いつの間にか門司に着いていた」と驚きの声をあげた。
「馬関海峡の海底に隊道が敷設されると下関の市民は生活できなくなるというのである。
なぜかというに東京駅を出発した汽車は今までと違い下関から引っ返さなくなるからである…」と井伏鱒二は「集金旅行」に書いている。
下関市民が生活できなくなったかどうかはさておいて、幾つものトンネルや橋が市民の生活を変えたことは確かである。
そして、関釜、関門の二つの航路が、それによって姿を消したということもまた事実である。
冨田義弘著「下関駅周辺 下駄ばきぶらたん」昭和51年 赤間関書房。