現在、城島天満宮や城島小学校などになっています。
城島城跡は、現在、城島天満宮や城島小学校などになっています。
城島城は、天正11年(1583年)、西牟田家周によって築かれました。
西牟田家周は大友氏に属して生津城主でしたが、大友氏が耳川合戦で大敗した後、筑後に侵攻した龍造寺隆信に降り、城島城を築いて移りました。
天正14年(1586年)、島津氏の勢力が北上した際に攻められ落城し、西牟田氏は城を捨てて肥前へ逃れました。
天正15年(1587年)、豊臣秀吉の九州征伐の後は筑前国立花山城主であった立花宗茂が柳河城へ転封し、その支城として重臣の薦野三河守増時が薦野城から城島四千石を賜り城主となりました。
関ヶ原合戦で立花宗茂は西軍に属して改易となり、代わって筑後に入部した田中吉政は家臣の宮川讃岐を置きました。
現在、跡地には天満神社や城島小学校があります。
遺構らしいものはありませんでした。
今は天満宮の境内に、城島城跡の碑と説明板があるだけです。
1583年に西牟田新助家親が当城を築城し、生津城より居城をうつしました。
1585年には、大友軍の攻撃を受けますが、西牟田兄弟の武勇と龍造寺政家の応援で勝利します。
しかし翌年九州統一をめざす島津軍の北上に防ぎきれず落城します。
1587年には立花宗茂の所領となり、家臣の薦野増時が城代になります。
1601年には田中吉政が筑後の領主となり、家臣の宮川十丸が城代になります。
1615年に一国一城令により廃城になります。
廃城後石垣や石材、材木などは久留米城に利用されたと云われています。
1583(天正11) 西牟田家周(いえちか)が、筑後川左岸の自然堤防上に初の平城を築く。
・1586(天正14)薩摩・島津義久が、岩屋城、立花城を攻めた際、手始めに城島城を攻め落とし、西牟田家周は、肥前・龍造寺氏のもとへ逃亡1587(天正15)秀吉の九州入城後、柳川を拝領した立花宗茂が支城とし、家臣、薦野増時が城代となる。
1600(慶長5) 立花宗茂が、関ヶ原合戦に際し西軍に組し、戦後翌年改易となる。
1601(慶長6) 関ヶ原合戦の大功により、筑後一国を拝領、柳川城を居城とした田中吉政が、支城とし、家臣、宮川讃岐が城主となり、城郭を完成。
讃岐死後は、宮川十丸が城代となる。
(西牟田家周時代の縄張りは不明で、解説板の城郭図は、この田中時代のもの。
)1620(元和6)嗣子なく田中氏が二代で断絶。
同時に城島城も廃城となる。
有馬久留米藩領となると、石垣や材木は、久留米篠山城の修理に利用され、今は本丸の礎石一個が残るのみ。
名前 |
筑後城島城跡 |
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ジャンル |
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住所 |
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評価 |
3.6 |
現在、跡地には天満神社や城島小学校があります。
遺構らしいものはありませんでした。