この塚は高良明神御廟とされている。
塚崎公民館の奥。
横に月読神社。
専用の鳥居に「高良廟」とあり、銘板には「塚崎貝塚・高良御廟塚」とある。
説明には円墳とあるけれと、裏に回ると今なお貝殻が散乱し、貝塚であることがわかる。
…貝塚?有明海がこの近くまで来ていたのか?改めて地図を見ると、川があるので、入海になっていたのであろう。
地名を塚崎と称するからには、この貝塚が岬を成していたか。
今とはかなり違った地形にあって、この塚ばかりが海を見下ろしたのかもしれない。
大善寺玉垂宮や高良大社の御祭神である高良玉垂命の廟と言われているようです。
周辺が古くからの貝塚だったようで、今でも貝殻がいっぱい散らばっています。
九州王朝の王とも目される高良玉垂命の廟として、貝塚(昔のゴミ捨て場所)の中というのは、不思議な感じでした。
ただ、現地はとても雰囲気のある場所で、大切な遺跡だと思われました。
こちらは高良玉垂命の御墓比定地である高良御廟塚となる。
弓頭神社祭神国乳分皇子の烏帽子塚はここから東へ約250mほど民家の庭先を通って行くような場所になるそうだ。
生憎そちらは見逃してしまったがH30.3.21時点でグーグルマップ上誤表記となっている為注意が必要。
(まあ現地まで来て気がつかぬという自らの失態に後ほど笑えたがな)興味深いのは玉垂命の御墓とされるこの地に月読神社が鎮座する事か。
御隠れになったのか、御隠しになったのか分らぬが何か意味はあったのだろう。
玉垣の中に植えられた松も心なしか寂しげであった。
高良大社の歴史に関わる場所です。
古事記や日本書記が触れない歴史が残っているように感じます。
この塚は高良明神御廟とされている。
が出土品などから弥生時代の塚と推定されます。
直径20メートル、高さ2メートルの円墳です。
盛土の中には多数の貝殻類が含まれています。
この地は、古くから高良玉垂命の塋域といわれています。
付近一帯は弥生土器の破片や石斧、石戈、銅剣が発見されています。
この地は、神功皇后の三韓遠征の船の到着地だといわれる大善寺玉垂宮の近くにあたり、弓頭大明神の墓烏帽子塚の近くにあたります。
高良玉垂命が誰であったのかというロマンスとともに夢のある場所です。
烏帽子塚古墳ともいう。
弓頭神社の祭神国乳別皇子の墓と伝わる。
東西258m、南北100m、周囲712m という巨大な前方後円墳だったと推定されている。
現在は、 一辺2mほどの玉垣に大きな1本のチシャ の木が生えている。
ここから、勾玉、 銅剣など種々の古器が発掘されている。
弥生時代の貝塚。
現在も大量の牡蠣殻とともに前期末〜後期の土器片が散布。
江戸時代には箱式石棺や銅剣が発見された。
なお、現地に駐車場はない。
名前 |
高良御廟塚 |
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ジャンル |
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住所 |
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評価 |
4.3 |
『塚崎貝塚・高良御廟塚』大善寺玉垂宮や高良大社の御祭神である高良玉垂命の塚になります。
出土品からは弥生時代と言われていて、その時代はこの辺りは海岸線があったので、牡蠣殻や貝塚で封土してあります。
三潴町指定史跡です。