古くて、予想外に立派な天満宮でした。
本山天満宮(上津天満宮) / / / .
拝殿にある虹梁に彫られた謎の文字左の梁は3文字すべてが『梅』 右より篆書、草書、変体仮名による梅です。
変体仮名は「武面→むめ」右の梁は『松竹梅』 右より「志よ宇知く者い」→「しようちくばい」→「松竹梅」菅原道真を祀る天満宮らしき、遊び心満点の趣向です。
よくある天満宮の一社と思いきや「境内は古代遺跡で縄文石器弥生石器も採集されています」とさり気なく書いてあり、或いは万年単位で信仰の場だったかもしれない。
何せ縄文時代は1万年以上続いたウルトラマンのような時代だった訳で(時代区分が粗過ぎるだけにも見えるが)、縄文時代のいつ頃なのかも書いて欲しかった。
何だか入口が判りにくいのは、長い間に交通体系が変化したせいでもあろうか。
天満宮としては中世から、現社殿は文政期と推定されている。
入口には何時の頃からか猿田彦大神が佇む。
当社に居候する豊姫宮(乙姫宮)については別に書いたが、「高良の神(玉垂命神)の配偶者だと言われています」とあり、当社は高良大神との繋がりがあるらしい。
「天満宮と子の日の松」として曰く。
当天満宮は御井町の高良大社と深い関わりを持っています。
古代より毎年旧正月初子の日に、氏子中にて同天満宮境内や付近の高良台より小松3本を根堀りし、高良大社前に運び植えたといわれています。
その後、明治維新の頃に中断し、昭和13年高良社の要望もあって再興されたが、再び中断された後、再開されました。
元来「子の日の松」とは、正月初めの子の日に野山に出て小松三本を根引きし、若菜を引いて遊び、国家安泰を祈り、延命息災を祝って宴遊する平安貴人公卿らの遊びであり、宮中でも当日は「子の日の宴」を賜る例がありました。
この平安貴人の遊びがどうして高良山と当地を結ぶ行事として行われたのか興味深いものですが、その起源は不明ながら、古文書、高良社に残る画縁起等により、古い伝統を持つ行事だと思われます。
高良山のかっての名木の松はすべてこの「子の日の松」の成長したものであり、◎高良内村社の用材となった七本松、◎豊臣秀吉が旗を結び付けたと伝えられる傘松・・・等は「子の日の松」だったといわれますが、残念ながらいずれも残っていません。
この由緒ある郷土の伝統行事は、地元住民により平成12年旧正月初子の日より復活しました。
子の日の松なんて初めて聞いたが、この看板の背後にある松がそれらしい。
高良大社に行ってみたら、なるほど松の子が植えてあった。
平安時代(西暦940年代)の文献に、御井郡の重要な神社として豊ヒメ神社の名が見える。
旧御井郡には他にも豊姫神社があるが、一応ここだと比定されているらしい。
本山天満宮は、江戸時代まで、「玉満宮」と呼ばれていたそうで、やはり玉垂天満宮であったらしい。
古くて、予想外に立派な天満宮でした。
スクナヒコノミコトの北原神社他、奥の方にも祠がたくさんありました。
例えば、右手に山の神、左手に水の神などです。
2018.11.11 上津校区のウォーキング大会にてスタンプラリー地点。
本山天満宮とも言われます。
境内の解説文にあるように、別個豊姫神社として祭られている3神のうち中央の祭神は豊ひめ命神で、高良山の玉垂命神の配偶者とされていました。
正史上豊ひめ命神は玉垂神と同殿または相並んで鎮座していたようです。
高良山の玉垂宮から陸路上津の玉垂宮(上村に鎮座していた、この豊ひめか?)に至り、上津荒木川をくだり大善寺宮本の玉垂宮に至るのが古代のルートだった、と聞きます。
復活した「子の日の松」の儀式から、高良山の玉垂宮とは深い関係であります。
なお、豊ひめ命神は北側ふもとの蓮の池に住むとされていました。
名前 |
本山天満宮(上津天満宮) |
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ジャンル |
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住所 |
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評価 |
3.9 |
今日久しぶりにお詣りしました。
この神社を管理されていると思われる方と偶然出会い、お茶を頂きました。
子供の頃、どんぐり拾いにたまに来てたのですが55年ほど前は下の方(鳥居の手前)が広くてどんぐりの木が沢山あったような記憶があります。
いつもは妻と二人で参拝しています。
出会に感謝です。
またお会いしたいです☺️