邪馬台国の滅亡P20崗の県主の祖熊鰐が仲哀天皇を迎...
周防國總社 佐波神社(さばじんじゃ) / / / .
駐車場は公園前しかない。
4台ぐらいしか停められない。
御朱印は階段下の右手側の家です。
社務所と看板があるのでわかりやすいです。
防府天満宮や国分寺が凄い近い。
心静かにお参りしました。
境内入って本殿右側に鐘栄稲荷神社もあります。
いつも併せてお参りするようにしています🙏 心が落ち着く神社です⛩
大村能章:自身が作曲した「同期の桜」(原題戦友の唄)については、死ぬまで自分が作曲したとは口にしなかったそうです。
ロケーションが良いのに人が居ない。
神社の静かさを満喫。
氏子さん達が常に掃除をして、綺麗にされてます。
お祭りも年に数回あります。
邪馬台国の滅亡P20崗の県主の祖熊鰐が仲哀天皇を迎えた「周防の沙婆(麼)」(すおうのさば)はここ。
神社の隣に、小さい公園があります。
人気がないので、お子さんが遊びに行くときには、不審者に気を付けるように促した方がいいと思います。
静かで気持ちいい神社です。
由緒ある神社です。
境内も参道も綺麗に手入れされていました。
社務所が参道入り口の脇にあり民家と見間違えてしまいました(^^;残念ながら社務所が御不在で御朱印はいただけませんでした。
山陽道に面した丘に鎮まる。
周防國惣社にしては小さな社、これは近くに遺る周防国衙のために立てたものらしい。
御神紋は十六日足。
高台に鎮まるけれど、高木に遮られ見晴らしは良くない。
東隣の民家らしきものは防府天満宮御旅所。
西の民家が社務所で、その間の坂を登ると公園。
駐車場はないので、毛利庭園前から歩いた。
元は金切神社であったという。
仲哀紀に曰く。
八年春正月己卯朔壬午、幸筑紫。
時に岡縣主祖熊鰐、天皇之車駕を聞き、豫め五百枝の賢木を拔き取り、以て九尋船之舳に立て、上枝に白銅鏡を掛け、中枝に十握劒を掛け、下枝に八尺瓊を掛け、周芳沙麼之浦に參り迎へて、魚鹽の地を獻ず。
因み以て奏し言すに「穴門より向津野大濟に至るを東門と爲し、名籠屋大濟を以て西門と爲し、沒利嶋・阿閉嶋を限り御筥と爲し、柴嶋を割り御甂(みなべ)と爲し、以て逆見海を鹽地と爲したまへ。
」…仲哀帝がこれを「是平定の兆祥なり」と喜ばれ、賊軍退治の祈願のため、天照皇大神外十三柱の神を祀られたのが金切社の起源とする。
併せて14柱なはずの御祭神がやたらと多いのは、開化期に三社を引き継いだから。
天照皇大神 素盞鳴尊 三穂津姫命級長津彦命 級長津姫命倉稲魂命 保食命表筒男命 中筒男命 底筒男命大己貴命 事代主命 健御名方命武甕槌命 経津主命田心姫命 市杵島姫命 湍津姫命豊玉彦命 水分神 大山咋神応神天皇 仲哀天皇 神功皇后合祀する浜宮神社は、景行天皇が勝間の浦に三女神を祀るというので、これが宗像三女神(田心姫命・市杵島姫命・湍津姫命)であろう。
勝間小学校から少し先、勝間神社跡がある。
国衙の八幡宮からは、応神天皇・仲哀天皇・神功皇后。
豊玉彦命・水分神・大山咋神は、日吉神社から。
残りが金切神社の神となり、数が合わないように見えるのは、住吉三神(表筒男命・中筒男命・底筒男命)を一柱としたのであろう。
それより、黒山に鎮座する金切神社は何なのだろう?境内に鐘紡から遷座した鐘栄稲荷社あり、大村能章顕彰碑あり。
総社であり、神功皇后の伝承が残る場所です。
佐波の名前を残した意味があるように思いました。
静かで開けた印象の境内です。
元は、金切神社と呼ばれていたが、明治四十年、勝間神社・八幡宮・日吉神社を合併し、佐波神社と改称した。
周防國総社は、金切神社のこと。
金切神社の創祀年代は不詳。
仲哀天皇が熊襲御親征のため筑紫へお下りになられた時、崗県主が、周防国佐波浦にて、お迎えにになり三種の宝物並びに魚塩の地を献じ、帰順の意を表した。
仲哀天皇は「是平定の兆祥なり」と喜ばれ、賊軍退治の祈願のため、天照皇大神外十三柱の神を祀られたのが起源であるという。
勝間神社(俗称浜の宮)は、 景行天皇が熊襲親征のため西下の時、この地にて三女神を祀ったと伝えられている。
周防国総社です。
静かで落ち着きが有りながらも、近所の子供が遊んでおられたので、地域に親しまれている良い神社だと思いました。
平成28年8月13日参拝周防国総社御朱印頂きました。
名前 |
周防國總社 佐波神社(さばじんじゃ) |
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ジャンル |
/ |
電話番号 |
0835-22-3268 |
住所 |
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関連サイト |
http://www.jinja-net.jp/jinjacho-yamaguti/jsearch3yamaguti.php?jinjya=6872 |
評価 |
3.9 |
旧山陽道沿いにある古くからある神社。
車を停めるなら鳥居の左にある車道を進むこと。