うっかりすると通り過ぎてしまいます。
ご先祖様が尼子の家臣だったので、親近感を覚えます。
鞆の浦のお墓にも足を運んだことがあります。
18世紀の建立。
忠義と武勇の最終地点の碑。
コンビニに駐車できて便利。
お参りついでに買い物できます。
車で仕事先に向かう途上に山中鹿之助公の墓が。
静かに手を合わせ、頭を垂れる。
最後まで諦めない。
(紅葉の時期に再訪して銀杏の木の写真を撮影しました。
)2019年7月、出雲、月山富田城跡を訪ね、山中鹿之助公の旧宅跡に参りました。
手を合わせておりますと、在所の方が話しかけて来られ、高梁のお墓参りにも参らせて頂いております、と話すと、その後大層話が弾みました。
今でも鹿之助公は心に生きておられるのですね。
昔の武将の墓です!有名な人です!
ドラえもんでパパがのび太に説教するときに名前を出していた方ですよね。
こちらにいらっしゃるとは、全然知りませんでした。
改めて調べてみて、勉強になりました。
うっかりすると通り過ぎてしまいます。
公園に隣接していますが、あまり駐車スペースはありません。
尼子の再興を願いながらも悲運にも散っていった忠義の将のお墓から見渡せる高梁川の眺めは良いです。
備中松山城の帰りにでも立ち寄ってみてはいかがでしょうか。
不遇の最期を遂げた山中鹿之助、お墓の隣にあるいわれを書いた石碑を読むまで知りませんでした。
花やお供え物が絶えないところから地元の方々に大切にされていることが伺えます。
車で通過。
信号で止まっただけ。
尼子勝久・山中鹿之助ら三千が籠る上月城は孤立。
兵糧も底をつき、城から脱走する兵も後を絶たなくなった。
1578年7月5日、毛利勢に降伏する。
降伏に際し、主君・尼子勝久の助命を再三にわたり、吉川元春・小早川隆景に申し立てたが、尼子勝久・尼子氏久・尼子通久・勝久の嫡男である豊若丸らが切腹。
本来であれば、鹿之助も切腹となるところであろうが、備後国の鞆の浦に布陣する毛利家当主・輝元の元へ護送されることになった。
しかし、1578年7月17日、護送途中の備中国合(阿井)の渡し(現:岡山県高梁市)で、毛利家臣の河村新左衛門・福間彦右衛門らに謀殺された。
享年34。
生涯で七十近い首級を挙げた猛将であり、最後まで尼子家再興を願った忠義の将でもあった。
本来は川の中洲にあった様だが、大水で流されて現在の地に移されたという。
1713年建立のお墓‼︎ 貴重な墓碑を大切にして頂きたいです。
山中鹿之助の跡を辿ってやっと最終地に来た。
上月城から高梁城へ護送される途中のこの川で騙し討ち会い最後をむかえた。
子孫が今でも続いていることに救われる。
名前 |
山中鹿介の墓 |
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ジャンル |
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住所 |
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関連サイト |
http://takahasikanko.or.jp/modules/spot/index.php?content_id=9 |
評価 |
4.1 |
高梁市指定史跡で高梁観光百選に選定されていますゲーム信長の野望シリーズや戦国BASARAで知られている山中鹿之助の墓です江戸時代に成立した陰徳太平記では主家尼子氏に尽くした忠臣として、同じく因幡民談記では略奪をした侵略者として記載されており評価は別れていますが戦国時代の感覚や常識は現代では理解出来ないと思いますしかし武将として後世の評価や人気は高く各地に鹿之助の墓がありますので興味のある方は訪れてみて下さい高梁市福祉施設たいようの丘下の墓地にある胴墓高梁市曹洞宗観泉寺にある位牌広島県福山市鞆の浦にある首塚広島庄原市東城町徳雲寺にある首塚京都府大徳寺、本満寺、光明寺の供養塔広島県浄教寺の供養塔鳥取県幸盛寺、大山町末吉の供養塔島根県巌倉寺、松江市美保関町の供養塔兵庫県佐用町の供養塔。