司馬遼太郎『街道をゆく32』に記述あり。
車で行ったが場所が分かりにくい。
駐車場を探してぐるぐる回ったが、結局県道から見性寺に入る僅かなスペースに勝手に駐車し見学。
土塁や三好氏の墓がある。
こことは別に信号の対称位置に館跡があり、こちらに展示室がある(スタンプもここ)。
県道を少し戻ると館の入口があり、広大な館跡に適当に駐車した。
場所を明示してほしいですね。
御城印はシェルの石油スタンドにて購入。
600円と高いが藍染で大変良い。
城感はありませんが、歴史観はあるかな。
「池の水全部抜きます」で見たので行って来ました♪でももうぱっっと見ただけでアカミミガメが・・・難しいですね、また駐車場に行くのにオフロード車が行くような感じになっていて面白かったです(^^)
お城巡りで訪問 まぁお城跡なので現在は見性寺だが堀とか一部は残ってる ちょっと先の昭和シェル石油のスタンドで御城印をいただく。
勝瑞城の御城印は武田石油で購入できます。
店員さんも御城印目当てでくる人があるので、対応はすごくいいです❗️😊
阿波三好絶頂期の本拠?長慶は殆ど畿内やし弟の実休が戦死するまでは治めてたのかな。
御城印は最寄りのガソリンスタンドで購入。
信長より先に天下をとった三好長慶の城跡です。
こんな阿波の田舎からよくやったと思います。
お寺の敷地内? にある、ちょっとした広場というか公園というかなんというか。
この場所には屋根付きベンチがあるため、ツーリングの途中で立ち寄って休息するにもちょうどいいと思う。
城跡の史跡としては、どこがどうなっているのかはよく解らない。
ある程度の案内掲示はあるものの、また、城の周囲に張り巡らせていた掘のあとが用水路になってているのだろう、という感じで、あとは石碑がある程度で歴史を感じるにはいささか難儀な場所ではある。
土塁は低くなっているが水堀は残る。
三好一族の墓碑あり。
日本続100名城細川氏や三好氏の拠点となった城で。
ここはその城の本丸になります。
堀が僅かに残っており当時の形が想像できます。
すぐ近くに勝瑞城跡公園があり、発掘調査で多くの遺構が出土しており、現在も調査が続けられています。
本丸跡に三好氏の菩提寺である見性寺が建立されてます。
子供の頃から身近にあった勝瑞城資料館が出来ていました実家から近いので次回は是非母と仲良く散歩したいです。
勝瑞城(しょうずいじょう)は、徳島県板野郡藍住町勝瑞(阿波国板野郡勝瑞)にあった日本の城(平城)。
平城跡と居館跡が2001年(平成13年)に国の史跡に指定され、その後の発掘で新たに確認された部分が2007年(平成19年)に追加指定された。
阿波国の守護所であり、近年の発掘調査でその繁栄の一端をうかがうことができた。
現在も断続的に発掘調査が行われている。
勝瑞城は鎌倉時代から安土時代まで、淡路国、讃岐国、阿波国の政治、経済、文化の中心地として、天下の勝瑞として名をなし、日本の中世史上重要な城跡である。
旧吉野川の南岸の自然堤防上に位置し、東側には今切川、南側には湿地帯に接している。
現在は吉野川の本支流に囲まれた吉野川平野の低湿地帯中央部に位置するが、当時は湿地帯が多く、川幅も広く攻めにくい地形であったと思われる。
海岸線も現在より内陸部にあり水上交通も便利で、紀伊水道を隔ててはいるが、京畿への往来も容易であった。
当地域は暴れ川「四国三郎」の分支流の多い場所で、平地の要塞というよりも、守護の居館、政庁としての性格の強い城で、城の構えは広大であった。
室町時代の守護所の様態をよく伝える貴重な遺構である。
中世地方都市としては類例をみないほど城下町が繁栄し、細川氏9代、三好氏3代の約240年の根拠地として歴史の舞台となった。
勝瑞城は、三好氏の菩提寺である見性寺の境内地にあり、城跡は東西約80m、南北約60mの方形で、周囲は幅14mの水濠が巡り、一部土塁が現存し、細川氏の守護所、三好氏の居館跡であったと思われていた。
しかし、近年に行われた発掘調査によると、中富川の戦いの時に急造された詰めの城、最後の砦として築かれた可能性が指摘されている。
2017年(平成29年)4月6日、続日本100名城(175番)に選定された。
信長の野望でおなじみの勝瑞城思ったより規模は大きくなく、それほど遺構も残っておらずでした。
隣の勝瑞城館跡は大規模に整備しているので、こちらももう少し整備してもらいたいですね。
全体的に20分程で見渡せる小規模な城跡。
周囲にあるお濠とごく僅かな土塁のみが遺構として残っている。
形が残っているので往時のお城が偲ばれるものの城跡探訪目的だとあっさりしすぎてチト寂しい感がする。
あと駐車場がわかりにくかった。
道路にある看板に従って見姓寺の敷地内に停めさせてもらったものの正式な駐車場かどうかは未だに謎に包まれておるのじゃ。
整備の発展途上段階とは思うがもう少し観光客に優しい城跡を目指して欲しいな、と私は思う。
#続100名城堀の後などが良くわかります。
勝瑞城は室町時代の阿波国守護細川氏、その後三好氏が本拠とした城です。
天文22年(1553年)、家臣の三好義賢が守護細川持隆を攻め城を奪い、以降三好氏が3代続きました。
三好氏の後、十河存保の城となりますが、長宗我部元親に攻められ勝瑞城は歴史の幕を下ろしました。
現在は見性寺となっており、土塁や堀を見ることができます。
阿波三好氏の城。
遺構は僅かに残る程度。
長宗我部元親と十河存保が激戦を演じた城で、見性寺周囲の本丸の堀と、勝瑞義家碑、三好氏墓所、勝瑞館跡の広場など、数分で手軽に見て回ることができます。
これが三好家の本拠地なのね。
平城なんでこんなもんかな。
当時の風情はなんとなく感じられるような。
三好一家のお墓もあったりします。
発掘調査中です。
文化の中心地だったことがうかがえる発見が展示されています。
徳島駅からバス🚌1本30分です。
勝瑞西降りて徒歩1分です。
勝瑞城はJR 高徳線勝瑞駅から歩いて10分位の所に位置します。
勝瑞城は室町時代の阿波国守護、蜂須賀細川氏及び、その後、三好氏が本拠とした城で徳島県に残る中世城郭の中では珍しい平城である。
15世紀中頃に細川 が土成の秋月城から勝瑞に移したとされ、その後、勝瑞城を中心として形成された守護町勝瑞は阿波の政治、文化の中心として栄えた。
勝瑞城は京都の管領屋形に対して阿波屋形又は下屋形と呼ばれた。
応仁の乱では東軍の後方拠点となり、また、両細川の乱では細川澄元党、次いで、その子の晴元党の拠点となった。
天文22年(1553年)家臣の三好義賢(後に実休と号す)が守護細川持隆を殺害し、実権を奪った。
この頃から三好長慶等は、度々畿内に出兵し、三好の名を天下に轟かせた。
天正10年(1582年)土佐の長曽我部元親に中富川の合戦で大敗を喫し、勝瑞城に暫く籠城したが、その後、さぬきに退却、ここに勝瑞城は歴史の幕を下ろしたのである。
その後、天正13年(1585年)蜂須賀氏の阿波入部により、城下の寺院の多くは徳島城下に移されたのである。
城内に歩いて見性寺は三好氏の菩提寺であり、当時は西の方にあつたが、江戸時代の中期にこの地に移されたのである。
この寺には三好一族の墓が並んであります。
尚、勝瑞城は続100名城に入っています。
阿波の守護所にしてはその規模は小さい。
近くの館跡の方が規模が大きく、こちらの城は詰めの城なのかもしれない。
公園みたいな感じでよいです👍
正瑞姓のルーツと言われる北野武氏の父菊次郎氏も正瑞の姓で家系は徳島県出身者。
司馬遼太郎『街道をゆく32』に記述あり。
四国の玄関、都への出入口。
名前 |
勝瑞城跡 |
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ジャンル |
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住所 |
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営業時間 |
[月火水木金土日] 24時間営業 |
関連サイト | |
評価 |
3.3 |
昔の堀跡が残っています城跡というよりは今は公園として整備がいきとどいている印象でした資料館もあります。