名前 |
倉見城跡 |
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ジャンル |
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住所 |
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関連サイト | |
評価 |
2.8 |
城跡の下の案内板によると、倉見城は、戦国時代に現須坂市井上の領主の家門、米持氏が居城としたとあります。
これは後代の倉見城のことだと見られます。
近隣に別宅を有する倉見氏――鎌倉時代の倉見城主の子孫だとか――によると、倉見家はもともと島津家の分家で、鎌倉時代(1220年代)に幕府によって茂田井近辺の地頭領主に叙任され、一帯の農耕地開拓と集落建設を指導したのだそうです。
一方、島津一族のなかでは、茂田井の島津家は本家から信濃での諜報の任務を与えられていたため、政治的配慮から島津から倉見に姓を変えて領主に任じたのだとか。
この場合、倉見城の位置も、案内板の裏手の丘だけではなく、背後や握側の尾根高台にも城砦、城郭があったかもしれません。
そして、現在、無量寺の境内が領主居館で、その裏手の尾根に城砦を築いていた可能性もあります。
その場所は、現在の城跡推定地の西側の尾根で、もっと標高が高い場所です。
無量寺は倉見氏(島津家)の菩提寺で、茂田井の集落内に古い時代の寺院があったそうです。
そこから、現在地に無量寺は移転したのだとか。