名前 |
高沢城跡 |
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ジャンル |
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住所 |
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評価 |
2.5 |
城主/高沢氏高沢城跡は国道293号沿い、緒川と、南西から緒川に合流する支谷の合流点に突き出した、標高約308m、麓からの比高約50mの丘陵先端部に位置しています。
高沢城では四つの曲輪を中心に、土塁や堀切・竪堀を組み合わせて巧みに城を守っており、特に、西側の尾根を遮断する二重の堀切は見応えがあります。
この城の城主は高沢氏と伝わります。
高沢氏は源新羅三郎義光の子孫伊賀守氏信(1185~1269)が常陸国高沢に住み、高沢氏を称したことが始まりです。
氏信は代々武門の家柄で、とりわけ強く勇ましく、腕力は人並み外れていながら、智謀を兼ね備えた武人であったと伝わります。
高沢城の近くにある照願寺(常陸大宮市鷲子2236)の寺説によると、氏信は出家する以前、照願寺の上にある高沢山に居城していたそうです。
この高沢山にあった城郭が高沢城と考えられます。
氏信はのちに浄土真宗の祖親鸞に弟子入りし、出家して念信と名乗りました。
貞応元年(1222)には常陸国小舟の毘沙幢(常陸大宮市小舟)の地に照願寺を建立して、照願寺第一世住持となった念信は子に高沢城を譲りました。
照願寺の住持職と高沢城は氏信(念信)の子孫に受け継がれていき、第三世道観の時代、正安二年(1300)には照願寺を高沢城に近い春丸(常陸大宮市鷲子)の地へ移しました(照願寺はのちに再移転し、現在地へ移っていますが、その時期については諸説あります)。
そして、第四世信光のときに高沢城を壊して仏場とし、第五世道善が信光の跡を継ぐと、領地を手放して家来に暇を与え、志ある者は弟子に、帰依する者は檀中として末寺と定め、これより武門の家を捨てて代々照願寺を相続することになったとされています。
こうして武家としての高沢氏は終わりを迎えましたが、この後も照願寺の住持職は高沢氏の子孫に受け継がれ、現在に至っています。
このように高沢城は十四世紀に廃城になったと伝わるものの、その後、当地域の領主である河内城主(常陸大宮市鷲子)鳥子江戸氏や武茂城主(栃木県那珂川町)武茂氏など佐竹氏系領主の手によって再興されたと考えられます。
戦国時代、常陸国北部を支配していた佐竹氏は、近隣の下野那須氏と対立・和解・同盟を繰り返しました。
佐竹氏は那須氏との抗争にあたって、時に高部や檜沢衆など常陸大宮市域の軍勢を送り込んでいたことが当時の史料から読み取れます。
那須氏との関わりで高部や檜沢といった常陸大宮市域の地名が史料に現れるのは、鷲子地区経由で常陸国から下野国の那須地域へ通じる街道があるためです。
現在の道筋でいうと、高沢城の麓を通る国道293号に相当するルートは武茂氏領を経由して上那須地域へ通じ、高沢城の1㎞ほど北、293号に接続している県道29号に相当する街道は那須氏の本拠烏山(栃木県那須烏山市)へ通じています。
そのため、戦国期の高沢城は佐竹氏系の領主たちによって対那須氏の最前線の城の一つとして整備、運用されていたと考えられます。
鳥子江戸氏の居城河内城よりさらに西に位置する高沢城(及び高沢城向館)は、佐竹・那須領国の境界付近の城郭として、街道の監視など軍事的に重要な位置付けにあったのでしょう。