慈眼禅師が創建したといわれている曹洞宗の寺院です。
応永年間(1394年〜1434年)に中国の僧、慈眼禅師が創建したといわれている曹洞宗の寺院です。
毛利時代には、毛利家家臣、草津城主児玉家の菩提寺でした。
弘治元年(1555年)厳島合戦で、毛利方の陣所に用いられたこともあります。
天正16年(1588年)7月、毛利輝元公上京の時は、当寺に宿泊し草津より出航しました。
浅野時代には、本家浅野藩の家老で、東城浅野家の菩提寺として明治初年まで続いています。
五日市町誌によりますと、元治元年(1864年)6月、「蛤御門の変」が起き、広島藩の仲裁により幕府と長州の談判が当寺で開かれたとあります。
大正15年の土石流により本堂が半壊し、修復の浄財を裁いた方に感謝する為、寄付者名を刻んだ大数珠を作り、8月10日「観音様縁日」に数珠繰りをします。
墓所には、東城浅野家一族の五輪墓、北条氏直、山中鹿之助の娘盛江の墓があります。
又、庫裏山側には、元禄年間に作庭された石組の庭があります。
天保11年(1840年)再建された本堂、山門は、昭和20年8月6日原爆の爆風により軒から上が持ち上がる等の被害で本堂が傾きました。
その後、避難してきた多くの負傷者で、堂内は踏み場もない状態でした。
平成3年の台風19号で甚大な被害を受けた本堂、山門は、広島市被爆建物等保存、継承事業の助成を受け、檀信徒、地域の方々のご支援により保存工事を実施しました。
行者山の山麓に鎮座する曹洞宗のお寺。
創建は1400年ころ。
ご本尊様は十一面観世音菩薩。
陀羅尼は「おん まか きゃろにきゃ そわか」。
十一面観音様は戦死された方々を弔う為に祀られることが多いそうな。
境内には尼子家復興のために「我に七難八苦をあたえたまえ」と月に願った戦国武将山中鹿之助の娘さんのお墓がある。
山中鹿之助は「山陰の麒麟児」(山陰の方々は麒麟が大好き)と呼ばれ、尼子三傑がお一人。
鹿之助のお墓は広島県福山市の鞆の浦などにもあるよ。
また1945年8月6日の原爆によりこちらも被害に遭われたそうじゃ。
立派な裏庭があって、元禄時代のものだそうです。
本堂の左横から回り込んで見させていただくことができます。
たまたま若いご住職様がお庭におられたので御朱印をお願いしたところ、快く書いていただけましたが、通常は書き置きのようで申し訳なかったです。
ありがとうございました。
広島新四国八十八ヶ所霊場 第七十四番霊場裏にある岩組庭園は、価値あるもの……、
応永年間(1394年~1427年)に中国の僧・慈眼禅師が創建。
大内氏家臣・草津城主の羽仁家の菩提寺、そして、毛利家時代には草津城主となった児玉家の菩提寺。
1555年の厳島の戦いでは、毛利勢の陣のひとつにもなった。
毛利輝元が上洛する際に宿泊し、草津港から出航したこともあるという。
山中鹿之助の墓や首塚といわれるもの、鳥取・広島を中心に複数あるらしいが、ここにも言い伝えがある。
山中鹿之助の娘・江(八重姫)の墓があり、その斜め後にあった松の大木(現在は枯れている)の根元に、山中鹿之助らしい頭蓋骨の入った骨壺を葬ったという言い伝えがあるそうである。
また、経緯が分からないが、後北条氏の第5代当主北条氏直のものという墓もある。
春になったらいい感じの庭園が良かった。
裏山に西区としては貴重な自然が残る落ち着いた空間です。
スタンプラリー74番。
お寺から街並みが見える。
線路手前からの階段がとても印象深い。
近くに自販機もないので御朱印の方は準備を忘れずに、書き置きタイプです。
名前 |
海蔵寺 |
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ジャンル |
/ |
電話番号 |
082-271-1054 |
住所 |
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関連サイト | |
評価 |
3.7 |
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草津まち歴史の散歩道o.05 海蔵寺。