名前 |
大歳神社 |
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ジャンル |
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住所 |
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評価 |
3.6 |
この地は有崎城の本丸(城主が鎮座し、戦局全般を見廻す場所)があった場所である。
明治40年頃(1907年頃) 一般神社併合の奨諭があったとき、無籍の神社は廃止されることになりました。
両城地区は、鎮守社を祭ろうとして、和庄村字堀に鎮座していた大年神社(本通小学校付近で亀山神社の摂社)を城山に勧請しました。
ところで、天保の大飢饉(1835年頃)の時、呉は貧窮していました。
川原石有崎城主、石田左近由明の末孫『源六』は文政九年(1826年)三十一歳の時、石田治右衛門より分家、石本の姓とし、川原石「江ノ川」の川口に住居を構え、親族片岡氏と共同で酒蔵を建て酒造業を始めた。
(広島民俗論集: 広島民俗学会発会十周年記念誌より 参考までに、石本源六は1796年生まれで、作られた酒名は『歓喜鯛』で、この酒は1910年安芸郡呉支部第九回品評会で、一等賞を、続いて県下酒類品評会で二等賞をとった。
)酒作りで成功した石本源六は酒造りを片岡氏に譲り、困窮した呉を救おうと1841年倉橋島の船大工棟梁、友沢半三郎に頼み、千石船「大吉丸」を建造し大海の商売に乗り出した。
(当時の船の多くは五十石以下)千石船「大吉丸」は東は伊勢、能登半島、西は長崎、南は日向、宇和島あたりまで交易に努め呉の商人に提供され、その壮大な大きさは呉の人に大きな希望を与えた と言われる。