名前 |
来目皇子殯斂地 |
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ジャンル |
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住所 |
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評価 |
4.0 |
◉来目皇子殯斂地(くめのみこひんれんち)防府市中央に位置する標高107.4mの桑山(くわのやま)頂上に宮内庁の管理する史跡があります。
用明天皇と穴穂部間人皇女との間に生まれた第2皇子で聖徳太子の弟といわれる来目皇子の仮埋葬地です。
◉1400年前、女帝推古天皇の時代に、3度の朝鮮半島の新羅征討が計画されました。
当時朝鮮半島の北および満州には「高句麗」「百済」「新羅」の3つの国、南部に伽耶諸国(「任那」)が散在していました。
任那とは、4世紀から6世紀にかけて朝鮮半島の南部に存在した小国家群の総称で、ここはヤマト政権の勢力拠点(「任那日本府」)でしたが、6世紀に入ると、ヤマト政権はその支配権を失い(562)年、新羅の侵攻によって任那日本府は滅ぼされています。
◉2度目の新羅征討の大将軍に任命された来目皇子は大軍を率いて向かった(603)筑紫(福岡の糸島)で病死しました。
亡骸は埴輪の製作や陵墓の造営に従事したハニシ(土師)一族の土師連猪手(はじのむらじいて)により、周芳の娑婆(山口県防府市桑山)に仮葬された後、河内の埴生山(大阪府羽曳野市)の丘上に葬られました。
◉土師氏はそのまま居着き周防国府の役人の中にも名前が見られます。
904年に菅原道真の霊をなぐさめるために建てられた松崎天神(まつざきてんじん)現防府天満宮(ほうふてんまんぐう)をつくったのも土師氏です。
◉参考『日本書紀(下)全現代語訳』宇治谷 孟 他(殯斂地とは死後すぐに葬儀や埋葬を行わずに、正式な埋葬の前に遺体を長期間仮安置する日本古来の葬制です。
もがり(殯)の儀式をした場所で現存する殯斂地は宮内庁によって管理され全国に二箇所のみです。
)◉この地をなぜ桑の山と呼ぶのかわからないのですが、地名にある桑は養蚕とともに中国から導入され、桑子は蚕そのもの。
これが一面にあるものを桑山とよび国家繁栄と平和の象徴とされたそうです。
来目皇子殯斂地であることや、今でも天皇家では養蚕を大切にしていることからも古くから皇室ゆかりの地であったと推察できます。
◉古墳〜桑山塔ノ尾古墳またこの山全体が古墳である可能性があります。
長州藩主の納涼亭造営工事で発見、金銅製飾履など稀少な遺物が出土しました。
発見と発掘は江戸時代の1785年(天明5)。
(目録を作り、入り口を元に収め閉じたとされており、入り口の場所は公開されていません)円墳か前方後円墳かも不明。
後期古墳であるが、鏡2面を副葬する古墳である。
金銅製飾履(くつ)や蛇行状鉄器など、朝鮮半島系文化が色濃い。
県道を挟んで隣に弥生時代中頃の高地性集落遺跡の井上山がある。
『山口県の古代遺跡 Ⅱ 古墳編』古代遺跡教材化研究会(平成8年3月)P26~27より引用◉本来毛利氏はこの桑山に築城したかったのですが、外様大名であったため、萩に押し込められたという説があります。
またこの山が砂地であり、地盤が築城に向かなかったこと、古墳が存在したこともその理由です。
桑山(くわのやま)は地元民の憩いの公園です。
子供のころに遠足やピクニックによく行きました。
頂上は防府平野が一望できるスポットです。
ここは史跡であり、さらに非常に重要な古墳かもしれない。
南端に巨石があります。
いつか詳しい調査があるといいですね!