平家落人伝説の物語が語られています。
平成十五年(2003)錦秋 三野町・三野町教育委員会より伝承「建礼門院五輪塔」の由緒建礼門院とは、平清盛の次女「平徳子」の称号。
徳子は、承安二年(1172年)高倉天皇の中宮になり、治承二年(1178年)、後の安徳天皇を生み、寿永二年(1183年)七月の平家都落ちには幼帝安徳天皇とともに同行、元暦二年(1185年)三月、壇ノ浦(下関市)の海戦で入水、助けられて帰京の後は、吉田野津御所などを経て、大原寂光院(左京区大原早生町)に移って仏に仕え、建保元年(1213年)、十二月十三日、享年六十歳を以てその生涯を全うしたこととなっている。
しかしながら、壇ノ浦(下関市)の源氏と平氏の海戦で、御生母建礼門院徳子とともに入水したと伝承される安徳天皇は、替え玉であって、実の安徳天皇は屋島の合戦に敗れて瀬戸内海を西走する一行から離れ、平国盛(教盛)に伴われて海上を東に向かい、香川県の引田に上陸して讃岐山脈を東に向かい三野町と琴南町の県境「大川山(1042m)」を経て三野町の馬瓶集落に下り、河内谷川沿いの川又集落を経て吉野川の北岸、ここ三野町太刀野に至り、さらに吉野川を南岸に渡り、二手に分かれて三加茂町鍛治屋敷から加茂谷をさかのぼったり、井川町の井内容を遡上したりして四国山脈に分け入り、寒峰の鞍部を通って、秘境祖谷地方の大枝名に落ち延びたといわれる。
建礼門院徳子とて、幼帝安徳天皇を案じ、京にはいたたまれず、替え玉を残し、女官とともに安徳天皇の後を追ってここ三野町太刀野に至ったが、吉野川の洪水に渡川を阻まれているうち不幸にもご逝去、この地に葬られる。
一方、安徳天皇も秘境祖谷の地において無念にも崩御され、火葬に付されたのである。
平国盛(教盛)らは、安徳天皇の御生母建礼門院徳子が眠っておられるお近くに帝の分霊を御祀りするべくここ三野町太刀野の地に到着、近くの松尾神社を仮の御泰安所とし、後に、背後の高台にささやかな陵(みささぎ)を築造安置して、ここに安徳天皇及び御生母の御安寧するところとなったと伝承され、村民心底から厚く御霊を崇拝し今日までの八○○余年間ひそやかに、しかし、我が子を思う慈母の証として守護信奉し至ったのである。
平成の今日、我が国の平家琵琶演奏第一人者上原まり氏も参拝されるなど平家落人伝説を思慕する大方の要望に応えるべく太刀野老人クラブのボランティアによって参道及び周辺を整備するとともに案内板及び「由緒」を建之し、以て安徳帝及び建礼門院の御平安を祈念し奉るの次第である。
名前 |
建礼門院の五輪塔 |
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ジャンル |
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住所 |
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評価 |
3.7 |
平家落人伝説の物語が語られています。