紅葉の時期は、ここに登るときれいです。
国の史跡 赤坂今井墳墓 / / .
大通り沿いに看板がありそこから坂道を上がると墳丘の上まであがることができます。
ここから日本でも類を見ない豪華な頭飾りが出土しているにも関わらず主要部は何故か調査が中断されたという謎多きロマン溢れる古墳。
今後の調査に期待です!
最近、案内板が新しくなりました。
府道17号線沿いにあります駐車場は見受けられませんでした墳墓への上がり口も府道沿いにあり、墳墓の近くまで行くことが出来ます弥生時代後期末の大型方形墳墓で、この時期の国内最大級のものになるそうです古墳じゃないん?と思ったら、解説板とこにポストがあり、その中にざっくり言うと、弥生時代野ものは墳墓で、古墳時代のものは古墳と言うというようなことでした出土品の出先が広域に跨っていたり、古代中国の顔料「ハンブルー」が使われたガラス管玉などが見つかっているという墳墓だそうです出土品は京丹後市立丹後古代の里資料館で常設展示されているということです。
赤坂今井墳墓の築造年代は弥生時代後期後葉であり、同年代の古墳として吉備の楯築墳丘墓や出雲の西谷3号墳であり興味をかき立てられる。
出土した土器には東海地方のものや北陸・山陰のものがあり、被葬者は広い範囲の王との交流が考えられる。
副葬品の中に大量の朱があったのだけど産地は三重県松原市丹生鉱山だったけど同年代の西谷3号墳、大風呂1号墳は中国陜西省のものらしい。
楯築墳丘墓は不明。
これは何を意味するのだろうか?墳墓は通りの丁度信号の所にあり信号機から道路沿いに歩くと雑草に覆われそうな階段があった。
墳丘上は雑草が幅を利かせていた。
この古墳からも色々貴重な埋葬品が出土している。
古墳巡りも事前知識を以ってイメージしながら味わないと興味半減になる。
要は先に調べておくか、後で調べるかの問題だが・・・う~~む!
紅葉の時期は、ここに登るときれいです。
また車を停める場合は、踏切向こうの安全な場所に。
赤坂今井墳墓(あかさかいまいふんぼ)墳丘は墳頂部で東西36m、南北39m、墓域としては南北51m、東西45mに及ぶ大型方形墳丘墓。
築造時期は弥生時代終末期前後(2世紀末~3世紀初め)と推定。
国指定史跡。
出土した、ガラス管玉の中には、古代中国で使用されていた顔料の主成分であるケイ酸銅バリウムが含まれていたとのこと。
被葬者は内外の交易に深く関与した丹後地域の盟主的首長であった可能性が高いとされている。
以下、解説板より。
「赤坂今井墳墓は中郡盆地から福田川の河口へ通じる谷筋に面した丘陵の先端に造られた弥生時代後期末(2世紀末~3世紀初め)の大型方形墳丘墓です。
16世紀ごろに山城が築かれたため一部削られていますが、造られた当時は東西36m、南北39m、高さ3.5mの長方形の墳丘と四方に巡る幅5~9mの平らな面からできており、墓域は南北51m、東西45mにわたる当時では日本有数の規模となります。
墳丘築造に際しては、南北34m、東西22m、高さ9mにわたって丘陵を切断して墳丘や周辺の平らな面が造成され、より大きく見せるための工夫がなされています。
中心的埋葬施設である第1埋葬は墳丘上面の奥よりに位置し、長さ14m、幅10.5mの規模です。
中央上面からこぶし大の石約300個による集石と割られた土器群が出土し、さらに西側には南北に並ぶ一列の柱穴列が見つかっていることから、独特な祭祀を行う場があったと考えられています。
第1埋葬を一部切り込んで造成された第4埋葬は、長さ7m、幅4.2mの規模です。
舟底状木棺(長さ4.4m、幅1.3m)の棺内から頭飾り・耳飾り一式、鉄剣1点、ヤリガンナ1点が出土しました。
頭飾りは、被葬者の頭の部分に管玉・勾玉が規則正しく三連に連なるもので、布などに編み込んでいたものと考えられます。
使用された玉類は確認できたものだけでガラス勾玉22点、ガラス管玉57点、碧玉製管玉39点を数え、ガラス管玉の中には、古代中国で兵馬俑にも使用されていた顔料「漢青」(ハン=ブルー)の主成分であるケイ酸銅バリウムが含まれていました。
赤坂今井墳墓はその規模、立地、墓上での祭祀のあり方を知ることができる丹後を代表する大型墳丘墓であり、丹後地域の弥生社会の発展を理解する上で大変重要なものです。
」
歴史を感じることができます。
丹後最後の弥生王墓。
名前 |
国の史跡 赤坂今井墳墓 |
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ジャンル |
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住所 |
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営業時間 |
[月火水木金土日] 24時間営業 |
関連サイト |
https://www.city.kyotango.lg.jp/top/soshiki/kyoikuiinkai/bunkazaihogo/3/1/2/3307.html |
評価 |
3.8 |
卑弥呼が登場し丹後王国が成立した時期(弥生時代後期後葉:2世紀後半)で前方後円墳が全国的に広がる前の墳墓です。
タニワ型弥生墓とも呼ばれる墳墓で福田川や竹野、野田川沿いに分布しています。
当時貴重だった鉄製品やガラスの首飾りを多く持った有力者が埋葬されていました。
作山1号古墳のように従属埋葬されていたのでしょうか墳頂部の平坦面に6基、墳丘裾の平坦面に19基が見つかっています。
その中心的な第一埋葬の舟形木棺はまだ未発掘です。
第一埋葬の西辺には柱穴が南北に4基並んでいたり土器を破壊するなど当時の葬送儀礼を知る手掛かりとなる発見もありました。
西出雲を中心に日本海沿岸に広く分布する四隅突出型墳丘墓との共通点が多く、鉄文化圏を構成するクニの首長墓と思われますが尾根を削った墳丘など初期の前方後円墳との共通点も興味深いです。
後の巨大古墳とは比較にならない小さな墳墓ですが当時としては最大規模だそうです。
東海地域などの土器も見つかっており広く交流があったようです。
神明山古墳と共に北タニワの歴史を知るには重要な墳墓です。
「京丹後市立 丹後古代の里資料館」に当墳墓のコーナーが有りますので併せての見学をオススメします。