名前 |
小林日董の頌徳碑 |
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ジャンル |
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住所 |
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評価 |
3.0 |
昭和十七年十月に建碑された小林日董の顕彰碑。
以下の通り,漢籍碑文を私訳する。
括弧内は補足したもの。
ーーーここからーーー時中院日董上人の(仏教に関する)学識の広さと徳行の純実さは,天下に推奨されるものであり,日蓮宗に仰がれるものであった。
後進を導き助け,諄々にして途中で投げ出さない。
(日蓮宗の)学問と学校が興隆したのも,一重に(上人の活躍に)起因する。
上人の功績は脚色をする必要がなく,その門下は(上人を)慈父の様に慕っていた。
上人の字は是純であり,新潟の出身であった。
(はじめ)村田(妙法寺)の遠正院日曼(和尚)を先生と仰ぎ,(つぎに)新居容月(=新居日薩)和尚に重用されて,(最終的にここ三田承教寺に設置された)宗教院で学んだ。
新潟中教院教師,大檀林教師,(そして)大檀林林長にまで出世すると,龍華山(妙顕寺)に瑞世し,また(日蓮宗の)管長となった。
もう一度皆に(管長となる様に)求められ,(それに応じた後,)管長を辞して,遂に大學林林長となる。
(新居日)薩和尚の遺言を奉じて,黽勉竭力三十数年,ひた向きに教育へと注力し,病が悪化してなお殊更に宗門教育に力を入れた。
明治三十八年七月三十一日,終に示寂する。
享年五十八歳。
いまここに(上人の)業績を鑑み,皆と相談して,その報恩を為すため,建碑することを欲した。
記念塔はすでに深草(の龍華山妙顕寺)にあり,碑もまた(上人の生まれ故郷である新潟の)出雲崎にある。
そこで(承教寺の)容月廬を(建碑する立地と)定めて,上人が研修・講授・入寂したこの地に建てるものである。
ーーーここまでーーー「新居日薩(新居容月)」は,三村日修と共に明治前期の日蓮宗を導いた人物。
日薩の教え子は薩門と呼ばれ,日修の教え子は修門と呼ばれた。
小林日董は薩門であった。
「容月廬」はかつて承教寺にあったお堂の名前。
新居容月の名前を冠している。
以下に翻刻を記載する。
頌徳碑吁嗟時中院日董上人學問之淵博德行之純實天下之所推一宗之所仰矣誘掖後進諄諄無倦宗學宗黌之隆實因乎上人法勲不可磨也門下景慕如慈父上人字是純越之後州人師事村田遠正院日曼爲器於容月和上學宗敎院自新潟中敎院敎師大檀林教師進大檀林長嘗瑞世于龍華又爲管長再次尋皆辭之遂爲大學林長曾奉薩和上遺囑以敎育爲任黽勉竭力三十有餘年猶一日病革尚以宗門教育爲念明治三十八年七月三十一日終示寂壽五十八今茲受業胥謀欲建石爲報恩記念墖已在深草碑亦在出雲埼乃奠容月廬研修講授入寂此地建焉延山 日謙篆額 門人塩出孝潤拝撰 同増田鳳明謹書。