厨川次郎こと安倍貞任の拠点疑定地。
案内板より、陸奥の豪族安倍氏は平安時代の後期になると、衣川作を中心に北上川沿岸やその他重要な場所に城柵を設け 最北端の拠点である厨川の柵には、宗嫡男の貞任を配した。
天喜年(1056年)前九年の役が起こったが 安倍氏の勢力が強く国司軍源頼義軍は平定することができず、出羽の豪族清原氏の来援によって安倍氏軍は次第に退き、この厨川柵に全精力をあげて最後の決戦を行ったが、破れて滅亡した。
康平5年(1062年)秋のことである。
厨川柵とは安倍館 権現坂 天昌寺台地を抱えた広大な地域とされ、昭和32年にこの大地の一部を発掘調査した時には、堀跡 土器 鉄片 古銭(宋銭)等が発掘された。
文治5年(1189年)源頼朝が、奥州藤原氏討伐の軍を起こし、自ら七軍を率いて平泉を攻め落とし、厨川柵まで進駐し、一週間ほど滞在をした。
この戦功によって伊豆の工藤小次郎行光に岩手郡を給した。
工藤氏は安倍館に居館を構え、南北朝後期 室町期を経て、南下した南部氏の勢力に臣従して、「栗谷川」を称した。
天正20年(1592年)阿部館は、豊臣秀吉の命によって破却された。
寺伝えによれば、天昌寺は、工藤氏の庇護を受け栗谷川三成の時代に曹洞宗となり、山号を岩鷲山と号した。
天昌寺の観世音菩薩は、この工藤氏代々の持仏で、明治年間に納められたと伝えられる。
昭和55年11月盛岡市教育委員会 天昌寺。
盛岡では有名なお寺みたいです。
案内板は道路沿いにありますが、寺の入り口は、案内板とは真逆の場所にあって駐車場も入り口近くにある。
天昌寺から安倍館遺跡辺りの広大な敷地が厨川柵らしいが、根拠もないです。
案内板がある。
明確な遺構はない。
安倍館跡にある案内板によれば、ここは厨川柵の端部に近いようだ。
名前 |
厨川柵 |
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ジャンル |
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住所 |
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評価 |
3.7 |
厨川次郎こと安倍貞任の拠点疑定地。