平安時代に、奥嵯峨の遍照寺を開基した、朝寛上人に朝廷は、新座郡(にいくらごおり)の税収の半分を受け取る権利を与えたそうだ。
朝寛上人は、桓武天皇の御子だが皇位継承からはずれ、僧侶になったが天性の音楽の才があり、雅楽の中曲を創始したらしい。
遍照寺は、広沢の池のそばにあり、朝寛上人も広沢の僧正と呼ばれていたそうで、その為、新座郡の大半が広沢と呼ばれていたそうだ。
だが、朝寛上人が亡くなり、権利は消滅、荘園が設けられたこともあり、広沢の名は一部に広沢原として残ったそうで、ここと和光の広沢は、広沢原だった場所らしい。
新座郡は、今の和光を中心に(和光の白子に郡の役所があった。
)朝霞の一部(昔の村による)大泉、保谷が含まれていた。
一説によると、ここの広沢の池と広沢観音が、遍照寺のあたりに似てるから付いた地名とも言われている。
名前 |
広沢観音 |
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ジャンル |
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住所 |
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評価 |
4.0 |
観音堂の他にも、様々な石仏や祠が建っていました。