「ああ上野駅」は1964年に井沢八郎が歌ってヒット...
田舎から東京へと、集団就職した人たちの歴史を感じました。
祖母が演歌好きでしたので、「ああ上野駅」の歌も耳にしたことがあり、慣れない都会での生活に苦労した先人の方々、その犠牲の上に今日の日本の経済発展があるのだと感じずにはいられません。
上野は動物園やら博物館、文化の場所でもありますが、今も昔も人々の出発点、心の拠り所でもあるのだなと感動しました🙂
上野駅広小路口前に立っているのを最近知りました。
歌碑が立てられたのは、平成15年。
これまで何十回と通っていましたが気づきませんでした。
いくつか調べた内容を要約すると、東京オリンピック開催に伴い、働き手不足の東京に「集団就職」の波が広がった。
戦後の青森駅発・上野行き臨時夜行列車が集団就職列車として運行開始され、昭和50年に廃止されるまで上野駅着の夜行列車が「集団就職」のシンボル的な存在だった。
という背景の中で、生まれた詞との事でした。
自分の親世代の話のため、話は聞いた事がありましたが、年齢を重ね改めて聞くと、この歌碑建立に込められた思いが伝わってきました。
この奥で喫煙させて頂きました勿論ご迷惑お掛けしないよーに細心の注意をはらいマイ灰皿は当然です☹️謎の郵便受けがあった動画参照。
2022.03.25感動的な歌詞です。
「ああ上野駅」は1964年に井沢八郎が歌ってヒットした曲である。
この歌は集団就職で東京に出てきた若者をモデルにしている。
集団就職は都市の労働力不足を補うため地方から主に中卒の若者の就職を斡旋する制度として1950年代に始まったとされる。
1954年からは専用の列車が用意された。
就職列車と言われ1975年まで続いた。
若者は列車に乗って主に東北や北陸地方から集団で上京し降り立った駅が上野駅であった。
彼らは「金の卵」と呼ばれた。
これは安い労働力で多くの利益をもたらしてくれるという意味がある。
こうして就職した多くは町工場や個人商店などで働いたが、決して労働条件はいいものではなく、友達もなく東京が決してバラ色ではなかった。
しかしそんな時上野駅が慰めてくれ、故郷を思い出し、頑張ろうと勇気を与えてくれるのである。
「上野はおいらの心の駅だ くじけちゃならない人生があの日ここから始まった」「配達帰りの自転車を 止めて聴いてる国訛り」「お店の仕事はつらいけど 胸にゃでっかい夢がある」この歌が出された1964年は東京オリンピックが行われた年であり、高度経済成長のまっただ中である。
集団就職は高度成長の象徴でもあり、集団就職で上京した若者が日本の高度成長を支えたことは間違いない。
その人たちにとってはこの「ああ上野駅」は特別の思いがある歌であろう。
さてこの歌に歌われた上野駅。
「北の玄関口」と言われる。
私が上京し始めて降り立った駅は東京駅である。
以来上野駅とはプライベートにおいても仕事上でもあまり縁がなかった。
上野駅は東京や渋谷、新宿などに比べ独特の雰囲気を持っている。
上野公園は桜の名所である。
上野動物園があり、コンサートホールの老舗東京文化会館、有名な美術館や博物館がある。
東京芸術大学がある。
上野の森は芸術、文化、教育の中心と言える。
一方アメ横があり下町的雰囲気もある。
石川啄木の有名な「ふるさとの 訛りなつかし 停車場の・・・・・」の歌に歌われた停車場は上野駅である。
「ふるさと」という言葉が一番似合う駅はやはり上野駅をおいて他にない。
「ああ上野駅」の歌碑はJR上野駅広小路口の道路脇に建っている。
立派な歌碑である。
高度成長期の上野駅を偲ぶことが出来ます(^^)。
名前 |
「ああ上野駅」歌碑 |
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ジャンル |
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住所 |
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評価 |
4.0 |
大先輩が歌うカラオケの締めの歌。
集団就職で、最初に訪れた大都会東京の最初の駅、上野駅。
思い出が一杯蘇る、想いのこもった歌です。
先輩も何度も訪れていたそうです♪