名前 |
喜沢の追分 |
---|---|
ジャンル |
|
住所 |
|
評価 |
5.0 |
この道標を兼ねた板碑類は、奥州街道と壬生通を案内しているが、過去幾度か場所が移されている。
これは、日光詣をする観光客が、宇都宮を通らずにショートカットするのを塞ぐため、商人たちが道標を移したためと思われる。
日光街道(奥州街道)と壬生街道の追分。
江戸の昔はここに茶屋や立て場があり、駕籠や馬はここで休息をとった。
ひときわ大きい男体山碑は天保6年(1835)に建てられた道標で、右奥州、左日光と刻まれている。
ここから伸びる壬生通りは日光西街道とも呼ばれ、日光に向かうには宇都宮を経由するより距離が短いため非常に重用され、松尾芭蕉もこの追分を左に向かっている。