会津人としては感慨深い場所の一つ。
大窪山墓地(旧会津藩) / / .
この墓域は旧会津藩共同墓地として寛永20年(1643)に会津移封になった保科正之によって創始され寛文4年(1664)に整備された中下級藩士の共同墓地である。
当時、藩では火葬の弊風を改めて土葬を推奨し大窪山、郷之原坊主山、小山の三ヶ所に埋葬地を設けた。
郷之原、小山の両墓地は主に商、職人の墓地として利用され、現在は真新しい墓碑の林立する近代墓地に変わっている。
しかし大窪山墓地は戊辰の役後の武士団の崩壊により全国に四散し会津と疎遠になった人が多く墓碑の倒壊、埋没が目立つが当時の埋葬形式等、旧態をほぼ今日に伝えており基数約4000という藩政墓地は全国的にも珍しい。
ここの埋葬者には横田三友俊益ら儒学者、武芸者、神道家、能筆家、考古学の先駆として有名な田村省三等、各界にあって会津藩を代表する人たちも多い。
平成十三年六月 会津若松市教育委員会。
名前 |
大窪山墓地(旧会津藩) |
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ジャンル |
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住所 |
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評価 |
4.7 |
会津人としては感慨深い場所の一つ。
欲を言えばもっと手入れを良くしてほしい。