入り口は海側の漁港の方です。
当社は式内社としては日本最東端、また、太平洋岸にある式内社としては最北端にある。
・神名帳の陸奥國気仙郡の項に記載のある理訓許段(りくこた、リクンコタン)神社の論社の一社。
論社のもう一社は陸前高田市の冰上(ひかみ)神社だが、理訓許段神社の論社としては、当社のほうであろう。
拝殿の由緒書にも「元式内理訓許段明神を祭と云」とある。
冰上神社はおそらく、登奈孝志神社か衣太手神社のいずれかだろうと思う。
・大船渡湾の東側の突端、蛸の浦漁港に面している。
里宮に行くのは少々わかりづらい。
建設が完了したばかりの防潮堤の門を潜って漁港の中に入らないと行けない。
・拝殿に掲げられた由緒書によると、御祭神は稲倉魂神、海津見神。
配祀神として建速須佐男神、照摩神、琴平神となっている。
また、創建は桓武天皇の御代の延暦二年とのこと。
・照摩神とはどのような神なのだろうか。
奥宮には2つの峰があって、ひとつは照摩大明神の祠が、もうひとつは尾崎神社の奥宮となっている。
かなり重要な神のように思える。
・当社について、谷川健一氏の「白鳥伝説」にとてもおもしろいことが書かれているので、一部抜粋しながら紹介したい。
当社はアイヌのイナウを神宝として伝えている神社である。
イナウについては興味がある方はウィキペディアで調べてください。
・昭和初年に社会学者の田村浩が盛岡の図書館で現在の赤崎町の村誌を読んでいたとき、たまたま同村の尾崎神社に「宝物稲穂1本、往古より鄭重に保存しあり」との記事を見た。
それには年代も詠み人も明らかではない「理久古田(りくこた)の神にささげし稲穂にもえぞの手振のむかしおもほゆ」という和歌も載せてあった。
田村は同村を訪ね、宮司に会い、稲穂というものをみせてもらった。
それは稲穂ではなく、シナノキから作られたイナウであった。
アイヌのイナウは柳やシナノキなどから作られるもので、この神社に保存されているものは古代アイヌの祭禮に使われたものが伝わっているものだろうとしている。
・田村はこの尾崎神社について、次のように考えている。
1. 尾崎神社の当初の祭神はリクコタン神である。
2. リクコタン神は千年以上前にこの地方における夷族の神であった。
3. リクコタン神はこの地方の夷族の首長であった。
4. 後代において大和神を合祀し大和民人に尊崇された。
5. このイナウは夷族の神へのお供えとして遺されたものであった。
6. この地方は古代アイヌの集落であり、これをコタンと称した。
・以上の田村説に対し、谷川健一は次のように述べている。
アイヌ語でリクコタンとは「リク」=上に、「コタン」=村、という意味。
現在の当社のご祭神はウカノミタマである。
「ウカ」というのもアイヌ語では、「越えて」とか「上に」の意味で、「リク」も「ウカ」も同じ意味。
したがって、リクコタン神社にウカノミタマを祀るようになったのは、決して偶然ではない。
また、バチェラーの辞書(註:明治時代に書かれた宣教師ジョン・バチェラーによる蝦和英辞書)によると、「ウカ」には複数を作るときに時々使われる接辞であり、「カムイ・ウカ」は神々の意味になる。
したがって、カムイ・ウカからウカノミタマが導き出されたとも考えられる。
・それにしても、当社の宮司宅によくぞこの神宝が保存されてきたものだと思う。
まさに、ヤマト王権がこの地に進出する以前の1
入り口は海側の漁港の方です。
防潮壁のほう蛸の浦漁港の左手、自分はナビで社殿裏側の林道に案内されて迷いました。
延喜式内社,陸奥國 氣仙郡 理訓許段神社尾崎神社遥拝殿、里宮【岩手県神道青年会HPより】 人皇第五十代桓武天皇の御代、延暦二年(783)創立。
神名帳に曰く、気仙郡三座、理訓許段神社・登奈孝志神社・衣太手神社、五十五代文徳帝が仁寿二年(852)八月辛丑陸奥国衣多家神理訓許段神並に授従五位下。
人皇百七代後水尾天皇の御代、寛永二年(1625)類焼に罹り古文書・宝物悉く焼失。
養和元年(1181)鎮守府将軍藤原秀衡が二百石を社領とす。
その後天正(1573)の変に至るまで葛西氏これを附すという。
当社は元気仙総鎮守にして旧藩祖先正宗公より以降代々巡国の時社参あり、別て尊崇他に比なし。
名前 |
尾崎神社拝殿 |
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ジャンル |
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住所 |
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評価 |
4.1 |
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