なんとなくやや気のうっ滞を感じました。
時間ができると参拝させていただいています。
いつもありがとうございます。
今回帰りに初めて 瀬織津姫命 の像に出会えました^^ありがとうございます。
御礼参りに伺いました。
座敷わらしちゃんには会えませんでしたが、こちらの神社ではとても澄んだ空気を感じます。
また寄らせて頂きます。
なんとなくやや気のうっ滞を感じました。
白髭神社のところは、軽やかでした。
早池峰山は古くから信仰を集める霊験あらたかな山で山自体が御神体なのか不明ですが、そのふもとにあります神社です⛩早池峰神社は、807年、藤原兵部郷成房が早池峰山頂にほこらを建てたのが始まりで、早池峰山岳信仰の中心と言われています‼️その後、たびたび火災に遭い、現在の建物は1612年に南部利直公が建立したとか⛩瀬織津姫と早池峰の神様の神話もまた神秘的です⛩神様のヘリポートであることは間違いありませんね。
早池峯神社(はやちねじんじゃ)御祭神 瀬織津姫命由緒早池峰の開山は、大同二年(807)山蔭兵部成房によってなされた田中明神の伝承と同様です。
即ち、藤原鎌足の子孫、兵部卿成房は六月雪溶けを待って登頂し、一宇を建立、瀬織津姫大神を勧請し、東子嶽明神と称したのが奥宮の創始です。
鎌倉時代、快賢という修験僧が川原坊を経営した一時期を経、正安二年(1300)越後の客僧円性阿闍梨が岳の現在地に一宇を建立し、十一面観音を勧請して早池峰大権現と崇めました。
更に円性は妙泉寺も建立して、早池峰大権現別当妙泉寺円性と称えました。
慶長十五年(1610)盛岡南部家は早池峰を深く信心し、利直公自ら大旦那となって二ヵ年がかりで、社堂悉く改築寄進した上社領百五十石、及び三十六カ山を、境内山林として附与し、以来領内総鎮守として信仰をあつめてきました。
明治三年(1870)神社と号を改め現在に至っています。
(岩手県神道青年会作成「岩手県内神社検索」参照)岩手県指定有形文化財(建造物)「早池峰神社本殿」早池峰神社は神仏混交の時代には新山堂(宮)と呼ばれ、天正十九年(1591)に南部氏の支配下に置かれるようになってからは、明治初年の廃仏棄釈まで妙泉寺が別当を勤めてきました。
新山堂一帯は、早池峰山が盛岡藩の城東の鎮山として重要性を増すとともに南部氏によって整備され、棟札によれば、慶長十五年(1610)から十七年(1612)に亘り、新山堂、薬師堂、本宮、舞殿、鳥居、客殿が造営されました。
現・早池峰神社は、その後二回修復の手が入っていますが、内陣柱を中心とした軸組や、木鼻の手法、本殿軒回りの装飾等にも、慶長期の堅実な力強い手法が残されていて、意匠も素朴ですが優れています。
(「境内案内板」参照)国指定無形民俗文化財(芸能)「早池峰神楽」早池峰神楽は、記録資料等は現存していませんが、岳の早池峰神社に文禄四年(1595)と記された獅子頭があることや、大償に早池峰山の修験先達をつとめた山陰家から伝えられたという長享二年(1488)の神楽伝授書があることから、その時代にはすでに神楽が存在していたことになり、その初源は南北朝時代にまで遡るものと考えられ、五百年以上の伝統をもつ非常に古い神楽であるといわれています。
また、岳妙泉寺(早池峰神社)の開設が正安二年(1300)と伝えられているほど早池峰山信仰の歴史は古く、修験山伏が行った祈祷の舞が神楽となったともいわれています。
(一般社団法人花巻観光協会「花巻の旅」参照)「遠野物語」の記載大昔に女神あり、三人の娘を伴ひて此高原に来り、今の来内村の伊豆権現の社ある処に宿りし夜、今夜よき夢を見たらん娘によき山を与ふべしと母の神の語りて寝たりしに、夜深く天より霊華降りて姉の姫の胸の上に止りしを、末の姫眼覚めて窃に之を取り、我胸の上に載せたりしかば、終に最も美しき早地峰の山を得、姉たちは六角牛と石神とを得たり。
若き三人の女神各三の山に住し今も之を領したまふ故に、遠野の女どもは其妬を畏れて今も此山には遊ばずと云へり。
(柳田国男「遠野物語」参照)
私のパワースポット。
早池峰神楽(国指定・重要無形民俗文化財)のお囃子にパワーを頂きます。
名前 |
早池峰神社 |
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ジャンル |
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電話番号 |
0198-48-5877 |
住所 |
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関連サイト | |
評価 |
4.7 |
遠野駅からタクシーで約50分程走らせてもらい遂に超パワースポットに行って来ました。
神聖な場所ですごく綺麗な気持ちで帰って来れました。