名前 |
大屋神社 |
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ジャンル |
/ |
住所 |
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評価 |
3.0 |
御祭神は「木花咲耶姫命・素戔嗚命・他二座不詳」とされる。
文永7年(1270)に小字宮の奥、通称荒神谷に勧請し、寛文8年(1668)現在地当域、通称奥の谷に遷座したと伝わる。
(「大宮町誌」より)いろいろ調べたが、なぜこのグーグルがこの神社を「丹後国三の宮」としているのかわからなかった。
この神社よりもずっと古くて故事来歴が詳細な神社があるのに、ここを三の宮とする理由がわからないし誰がそのように指定した、あるいは言った・書いたのかもわからなかった。
少しヒントになりそうなのが「室尾山観音寺神名帳」という古文書について書かれていた「丹後の地名」というサイト。
それによるとこの古文書には丹後の神々が朝廷から頂いた位階が記してあり、丹波郡における首座が大宮賣神社の大宮賣明神(正一位)、次が同神社の若宮賣明神(従一位)、その次が大屋明神(正二位)だという。
つまり丹後国のNo.3ではなく丹波郡、今の中郡のNo.3であるらしい。
おそらくこのあたりのことを拡大解釈して誰かが「三の宮」としたのではないか。
それにこの「大屋明神」は「三重神社」ではないか、とも言われているらしいし。
どうもこの神社が「丹後国三の宮」というのはかなり無理があるような気がする。
(追記)実際にお参りしてみて気になったこと。
拝殿に御祭神の名前を記した木札が掲示してあり、「五十猛命(大屋毘古命) 木花開耶媛命」としてあった。
これは「大宮町誌」の記述と矛盾する。
いったい根拠はあるのだろうか。
そして境内に「式内 三重神社」と刻まれた石柱が建っていた。
延喜式神名帳に記載された「三重神社」はこちらである、ということだろうか。
しかしこれも「大宮町誌」や三重地区にある「式内 三重神社」を否定するもの。
その根拠はどこにあるのだろう。