次回行ったときは、是非入ってみたい。
男の生き様として憧れる楠木正成公。
筋を通して生きることの難しさは、今も昔も同じかもしれないけれど、本当に命を賭けるという意味で昔の人の覚悟は凄まじかったのだと思います。
■楠木正成公殉節地湊川神社本殿の北西にある。楠公自決の地。玉垣で囲い普段は門扉が閉じられている。玉垣の内部は奥行きが有り、階段12段上がって最奥に狭いが横長い平地が在る。此処平地の玉垣の先向こう北側の林が殉節地。社(祠)は無い。●殉節地とされる地は広くない。神社と北側に在る神戸市立中央体育館を隔てる脇道が玉垣からもすぐ近くに見える。鎮守の森には乏しい若く細い木々ばかり。幕末~明治期の尊皇論で再注目されて、官民挙って崇め祀られたか寄進の燈籠も明治期以降ばかりのようだ。摂州尼崎城主遠江守は代々と、楠木正成墓碑辺りに江戸期から燈籠を幾つも寄進している。しかし、此処殉節地には遠江守の寄進したものは見当たらないようだ。◼殉節地前の焼物型燈籠が震災で大破した。替わりに境内既存の青銅燈籠を移設建立。元の石台座は本殿脇に置かれた。
◼伊藤博文寄進の燈籠が本殿西端の殉節地近くに在る。別拵えの石垣台は大正期になり神田兵右衛門が補修を兼ね加えたもの。◼神田兵右衛門(こうだひょうえもん)は現在の兵庫県姫路市に天保12年(1841)生まれ。大正10年(1921)没。日本の実業家。町兵隊の編成、明親館など神戸市内十数か所の学校を建設。新川運河や兵庫運河の築造。水道の布設などで功績がある。初代神戸市議会議長をはじめ多くの公職にも就く。「神戸発展の父」とも云う。和田神社に顕徳碑が在る。●お若い宮司の立ち会いで話も出来た。
撮影も少ないが出来た。
疑問や新説の機会には改めて再見したい。
事前に予約すれば中に入れるなどとは夢にも思い至らなかったので、次回行ったときは、是非入ってみたい。
楠木正成(大楠公)と、実弟の正季が差し違えた場所。
そして、七生滅敵が生まれた場所。
七生滅敵は、時代が進んで「七生報国」となりました。
感涙ではありませんが、自然と涙が零れそうになります。
天皇陵巡りをしていた時から来たいと思っていた神社。
来れて良かった。
1336(延元元)年, 大楠公が一族16騎, 郎党60余人とともに自刃した場所だと云う。
🤔
◎静寂な雰囲気に包まれる場所⚫︎ここは外から祈りを捧げよう。
⚫︎門内を拝観など不粋なことはやめよう。
2019 12 16本日、楠木正成公殉節地にて参拝させて頂きました。
初めての参拝です。
偶然にも神主様がお時間があるとのことで参拝することができました🎵入って左奥が楠木正成公殉節地とのことです。
元禄5年に徳川光圀公の指示により造られたものですね。
歴史の重みを感じながらの参拝になりました❗〰️〰️〰️〰️〰️〰️〰️〰️〰️〰️〰️〰️〰️延元元年(1336)5月25日、正成公が御弟正季卿以下御一族と「七生滅賊(しちしょうめつぞく)」を誓われつつ殉節された場所と伝えられ、境内西北隅に位置します(国指定文化財史蹟)。
史跡 楠木正成公戦没地一、指定区域 四百三坪九号一、指定年月日 昭和二十六年六月九日一、由緒此の地は延元元年(1336)五月二十五日、楠木正成公(大楠公)が一族十六騎、郎党六十余人と共に自刃せられた地である。
明治元年(1868)、明治天皇は大楠公を千載の一人、臣子の亀鑑として鎮祭すべき旨仰せ出され此の地を含めたところに湊川神社が創建せられたのである。
空気が澄んでいます。
忠義と孝行の美徳。
史跡として大切に保存されている。
見学は要予約。
楠木正成公が一族16騎、郎党60余人と共に自刃した所。
名前 |
楠木正成公殉節地 |
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ジャンル |
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電話番号 |
078-371-0001 |
住所 |
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営業時間 |
[月火水木金土日] 7:00~18:00 |
関連サイト | |
評価 |
4.3 |
湊川神社の祭神である楠木公ですが、この地で自刃したとされます。
鎌倉幕府滅亡の立役者でもあり、後醍醐天皇に忠義を尽くし、承久の乱後、北条氏武家政権に奪われていた政権を朝廷方に取り戻し、新田義貞と共に建武の新政を成就させたものの、非業の死を遂げてしまった英雄でもありますが、湊川の戦い後、長い間自刃された場所が分からなかったのは不思議です。
それだけ長い間、武家による政治支配が続いていたとのことでしょう。
また楠木正成が歴史の表舞台に再登場するきっかけとなったのが、徳川期になり水戸光圀公が墓碑を立ててからだというのも面白いですが、当時より独自の尊王論を立てた水戸藩の思想の表明であるのではと思います。
湊川神社創建の建議をしたのは若き頃の伊藤博文らとされますが、大隈や江藤も賛同しており、幕末期になるとこうした尊王思想もピークに達していく様子が分かりますね。
楠木公は、遂には明治13年に最高位である正一位の位階を明治政府から与えられております。
1400年前から続く官位十二階を起源とする、国に対して功績のある人物に贈られる、国家に対する官人の評価の尺度を示すものでもありますが、通常は死後程なく贈られるものなのですが、本当に人物の評価というものは難しいですね。
ちなみに北条時政や足利尊氏には、同様に位階が与えられなかったんですね。