「事代主神」「建御名方命」「天照皇大神」「天児屋根...
御祭神が、「事代主神」「建御名方命」「天照皇大神」「天児屋根命」ということであるならば。
「事代主神(ことしろぬしのかみ)」は「大国主命」の子ですので「出雲神」です。
「建御名方命(たけみなかのみこと)」は、「諏訪明神」であり、「出雲神」の子です。
ということで、この二柱は「亀岡盆地」の開発に関わった神であるとともに弥生時代の農耕をすすめた鉄の集団「出雲族」ということになります。
〇「天照皇大神(あまてらすおおみかみ)」は、天皇の祖先神ですが、明治政府が「国家神道」をつくった時に、あちこちの「神社」に祀るように指示したので、この地に関係があるかどうかはわかりません。
〇「天児屋根命(あまのこやねのみこと)」は「河内国枚岡神社」の神で、中臣氏・藤原氏の氏神になります。
奈良の「春日大社」に、常陸国(茨城県)の「鹿島神宮」の神と上総国(千葉県)の「香取神宮」の神を勧進して、妻の「比売大神」とともに祀られています。
であれば藤原氏の領地であった過去があるのかもしれません。
「春日神」として見るならば、「カスガ」という地名の「スガ・スカ・ソガ」は、古くは「川の砂の堆積した場所」という意味の言葉です。
その砂は「花崗岩」が風化した「真砂土」であって、「砂鉄」を産していたと見る説があります。
この地が「曽我部町寺」で「曽我谷川」が流れているところを見ますと、「製鉄」にまつわるこの線が強いのかもしれません。
〇土地の開発弥生時代の昔の農地開発には、水田を潤す「用水路」建設が重要でした。
それを成し遂げられる「技術」を持つものが「土地神」として祀られていることが多いと思われます。
字「樋ノ口」の「井堰(いせき=小型のダム)」から水を取り入れた「樋(用水路)」が、「滝ノ下」辺りで急流になって流れ下って行き、土地を潤していったことが想像できます。
はじめてお伺い致しました。
🙏🙏🙏こちらの神社も山の中にありやはりパワースポット神社です。
🙏🙏🙏ありがとうございました。
またお伺い致しますのでよろしくお願い致します。
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旧丹波国の式内社です無料の駐車場あります本殿は大きなもので立派な彫刻が施されています山裾にあるため、自然豊かな神社です池もあり、いい雰囲気の神社でした。
鳥居をくぐって手水舎がすぐに見えましたが水盤は枯れており、コロナ禍で止水してるのだろうと境内に進むと、右手からチロチロと水の音とひんやりした気配。
参道から一段下がったところに手水舎発見。
本殿は雨風に耐え抜いた彫刻や飾りが地味に目を引きます。
本殿右手に一坪ほどの能舞台のような建物が有ります。
能を奉納してたのかな?と思いながら・・あ、それで與・能!間違ってたらすみません。
うろうろして見つけたところの一つ。
神社が好き。
鳥居をくぐると趣きのある手水所がある。
本殿の前に灯籠が一基。
応永二十一年とある。
600年程前ですか?風化が進んであちこち欠けているが、「丹後型」と呼ばれるものに似ていてスリムさが格好いいです。
この神社は、「灯籠は基本一基づつ!」とされている感じ。
他所の神社で「対という思想は中国由来なんです。
本来、灯籠は一基」とお聞きしたことを思い出した。
それが由緒の古さを現しているのなら、崇神帝以来とされるのも、なんとなく納得。
(崇神の昔に灯籠があろうはずもないが)鳥居の右手に池があるがかつて厳島社があったような感じ。
平家物語にも登場する大変由緒のある神社ですが、維持して行くのも一苦労だそうで 丁度訪れた時間に神主さんと鉢合わせ、お話を伺いました。
今年※H29※本殿の一部を修理した際の部材の費用や宮大工さんに掛かる賃金や作業期間、京都府や神社庁との折衝等々本当に大変でしたと聞きました。
それもこれも400世帯近くある氏子さん達の協力が有ればこそだそうで本当に有難いですとの事。
そして修理した部分の説明や交換した柱材※内部が空洞になってしまって非常にもろい状態※も見せて頂きました。
氏神與能神社由緒掲示板延喜式内社で「諸国鎮座神秘抄」の写しによれば、奈良時代の四道将軍丹波道主命が国家鎮護の為、桑田郡に三座の神社を祀った、これ三宅神社・山國神社・與能神社である。
と記述され奈良の東大寺が別当寺であったが、與能神宮寺が建立され、現在の御旅所を中心に曼茶羅堂・講堂等、寺区全域に伽藍・五重塔などが立ちならび、その地名が今も現存している。
皇室・大名等の崇敬が篤く、口丹波南部の中心として隆盛を極めたが、鎌倉時代に兵火にあい焼失したが、複弁蓮華軒丸瓦や五重塔の心礎・礎石などが現存している。
又、「谿端與能宮旧記」によると、僧空海が嵯峨天皇の命により神宮寺の奥ノ院露堂に僧形八幡(現存)を祀り護摩祈祷を行った。
後嵯峨天皇が村山與能八庄を神領として寄進されたと記されている。
本殿は三間社流造りで蛙股の四神(玄武・白虎・蒼龍・朱雀)などの彫刻はすばらしく、現存する慶長八年(1703)の棟札によると、文応元年(1260)に建立された本殿が慶長元年の地震で倒壊し同八年再建されたことがわかる。
現在の本殿は正徳四年(1714)の棟札により改修されたものと考えられる。
京都府登録文化財で、鎮守の森一帯は文化財環境保全地区に指定され、又、シイ、カシなどブナ科の巨木が残っており京都府の自然200選(植物の部)に社叢林として選定されている。
境内には応永22年(1414)の銘のある優美な橘形仏燈があり、石造美術として日本燈籠史に掲載されている。
例祭は10月22日で古来「六華祭」と云う名で呼ばれ、六ヶ村の氏子を御輿がまわる輪番が廻り地蔵で決められる神仏習合の形が残っている祭りである。
全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年。
名前 |
與能神社 |
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ジャンル |
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電話番号 |
0771-22-1057 |
住所 |
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評価 |
4.4 |
本殿の前にある灯籠が印象的。
ここから心学の道へ行けます。