このサイトは、悲しいことに、低木や雑草で覆われてし...
普賢寺関白ともいわれた近衛基通は、観音寺大檀越(だいだんおつ)として伽藍の復興に貢献した。
平安末期〜鎌倉時代前期、平清盛、後白河天皇、後鳥羽天皇らにより摂政・関白に任じられて政治を行ったが、建仁2(1202)年に政界から退き、行理と号して仏門に入ると、普賢寺に移り住み、74歳でこの地で亡くなる。
今も屋敷跡には墓所が残されている。
基通と叔父・九条兼実の関係は良好なものではなく、兼実は基通の関白就任直後こそ「故殿(基実)の深恩を思う」として補佐をしていたが、やがて疎遠となった。
兼実の日記『玉葉』には後白河院と基通の関係を「法皇艶摂政依其愛念」と記してその関係を疑い(寿永2年8月2日条)、兼実の同母弟・慈円は基通・家実父子を「無能な人物」であるとしている(『愚管抄』)。
平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての公卿で後白河法皇随一の側近。
摂関家の嫡流であり、平清盛の六女・完子を正室とし、従一位・摂政 関白・内大臣まで上り詰めた。
建仁2(1202)年に政界から退き、行理と号して仏門に入るり普賢寺に移り住み、74歳でこの地で亡くなった。
墓はその屋敷跡に残されている。
名前 |
近衛基通公御廟 |
---|---|
ジャンル |
|
住所 |
|
関連サイト | |
評価 |
3.5 |
このサイトは、悲しいことに、低木や雑草で覆われてしまった。
しかし、このサイトを発見する良い機会でした。
(原文)The site, sadly, has become overgrown with shrubs u0026 weeds. But it was a good opportunity to discover this site.