南朝・後村上天皇の行宮の址。
此地ハ後村上天皇の行宮址なり、初足利尊氏義詮父子歸順するを以て天皇賀名生の行在を發して男山に幸し八幡宮別當法印田中定清の家に臨御す時に正平七年閏二月十九日なり定清勤皇●志篤●族を挙げて護衛し奉る蓋し北畠楠木和田の諸氏と相應ずるなり歸●して義詮また叛き大挙志て來たり侵すに及び皇軍防ぎ戦ひて利あらず天皇再び。
賀名生に遷幸す其事詳●太暦太平記等は見え●り明治元年正月伏見鳥羽の戦よ當り行宮以下の屋舎兵火に罹り一宇の免る●●のなし定清二十二世の孫後清聖蹟の遂は湮滅に帰せんを惜ミ今兹昭和三年十一月宮内大臣一木喜徳郎博士の揮毫を得て此の古碑を建つ嗚呼行宮當時の事を懐へ感慨限り無きものあり乃ち事の概畧を記し憑弔する者の標識となす。
臨時帝室編修宮長正三位勲一等文学博士 上参次識す何が書いてあるのかなと思い、とりあえず石碑の画像を何枚かとって書き写してみました。
しかし「形が読み取れないところ」、「形がわかっても私の教養ではわからない文字」があり、●としてあります。
南朝・後村上天皇の行宮の址。
善法寺家とともに石清水八幡宮護国寺の要職を務めた石清水祠官家・田中家の跡地。
足利尊氏と弟直義 の間で起った観応の擾乱の際、石清水別当・田中定清が都の奪還を目指す後村上天皇に味方し、田中家が後村上天皇の行宮となった。
名前 |
後村上天皇八幡行宮跡 |
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ジャンル |
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住所 |
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評価 |
3.8 |
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ユネスコとベネッセは至急、これを世界遺産に登録すべし。
偉大な大遺物である。