明智光秀の本陣、古墳散策!
恵解山古墳の特徴
乙訓地域最大の前方後円墳で、山崎の合戦での歴史的背景があります。
整備された古墳公園では埴輪埋葬の再現が楽しめ、地域の憩いの場です。
勝龍寺城から徒歩10分、周囲の景色を楽しみながら散歩に最適なスポットです。
明智光秀が山崎の戦いで本陣にした場所との説があるそうでさもありなん、周囲を一望できる素晴らしい古墳でした。
【墳活記録用】2024年7月28日(日曜日)恵解山古墳(いげのやまこふん)は、乙訓地域最大の前方後円墳で、前方部は南東を向いています。
JR京都線に乗って京都に向かう際に、進行方向に向かって右手に見える古墳です。
長岡京駅に到着する少し前に古墳の横を通過します。
後円頂上全部と前方頂上の一部は墓地なので、関係者以外は立ち入り禁止になっており注意が必要です。
古墳用の駐車場はないので、徒歩や自転車などで訪れるのが良いかもしれません。
すぐ横にJR京都線を跨ぐ陸橋があり、その上から眺めることができますし、陸橋通路には説明板も設置されていますのでじっくりと古墳が楽しめると思います。
恵解山古墳(いげのやまこふん)は、乙訓地域最大の前方後円墳で、前方部は南東を向いています。
規模は、全長約128m、後円部径約78.6m、後円部の高さ約10.4m、前方部幅約78.6m、前方部先端の高さ約7.6mに復元できます。
古墳の周囲には幅約25mの浅い周濠(しゅうごう)があり、周濠を含めた古墳の全長は約180mに及びます。
墳丘は3段に築かれ、くびれ部に近い前方部の東西には、大きさや形の違う造り出しがあります。
古墳の形や造り出しのまつりなどは、当時の大王墓にならったもので、古墳に葬られた人物の名前は記録に残っていませんが王権とのつながりが強い乙訓地域の全域を支配した実力者の墓であったと考えられます。
住宅地の中に突然巨大な陵が現れます。
前方後円墳で埋葬者は不明ですが当時相当な権力者であると推定される大きさです。
駐車場場所ありませんが古墳の上まで登れます。
また、埋葬されていた埴輪のレプリカも設置されているので当時の凄さが感じられます。
古墳の上部に一般のお墓があるのは少し違和感があります。
お墓の上にお墓ですので。
古墳の周りに芝生が広がっており、ところどころにベンチが有ります。
東屋も有って小さい子供さんからお年寄りまで集っています。
スパイク、バット、ゴルフクラブは使用禁止なので、安心して遊べます。
遊具は有りません。
バレーボール、ミニサッカー、バドミントン、フリスビーなど良く見かけます。
トイレは有りません。
古墳であり現代の墓でもあり明智光秀の本陣でもありいろいろと要なんだろう。
きちんと整備されていてずばらしいです。
大きな前方後円墳。
後円部は一般の墓地、それ以外が公園になっています。
古代、中世と歴史的に重要な史跡ですが、公園では子どもたちが楽しそうに広場で遊んでいたり、虫を追っていて地域の憩いの場となっている様です。
◽アクセス①阪急京都線/西山天王山駅/東口︰徒歩15分②JR東海道線/長岡京駅/東口︰徒歩20分③阪急バス 「久貝」 下車︰徒歩4分◽恵解山古墳公園▪2014(平成26)年、復元整備事業が完了し. 恵解山古墳公園として開園しました。
▪駐車場 ︰なし◽古墳の整備保存への転機▪1980(昭和55)年、墓地の拡張工事の際に. 前方部のほぼ中央部から鉄器が出土し、. 長岡京市教育委員会による第3次の緊急. 調査が行われました。
▪総数約700点を納めた副葬品埋納施設の. 発見を契機に、1981(昭和56)年に国史跡. に指定されました。
▪鉄製武器などの出土品は1999(平成11)年. に府指定文化財の指定を受けました。
◽「恵解山古墳」 データ▪所属 ︰乙訓古墳群▪形状 ︰前方後円墳▪規模 ︰墳丘長128m. 全長約180m (周濠含む)▪墳丘 ︰三段築成、造出し▪外周施設:周濠(幅30m)▪外表施設︰葺石、埴輪列▪埋葬施設︰(推定)竪穴式石槨▪被葬者 ︰桂川右岸を治めた有力者▪出土品 ︰鉄刀、鉄鏃、円筒埴輪. 形象埴輪(蓋、家形、水鳥)▪築造時期︰5世紀▪発掘調査︰①1975(S50)年 ②1976-7(S51-2)年. ③1980(S55)年 ④2003(H15)年. ⑤2004(H16)年 ⑥2005(H17)年▪史跡指定︰国史跡「恵解山古墳」1981年. 京都府指定文化財有形文化財出土品▪️前回の訪問時より、古墳公園エリアが. 拡大しスッキリしているような~!?
古墳周りまで綺麗にされてます。
小さな古墳。
近隣住民の憩いの場。
そしてそこには墓地も。
朝のウォーキング🏃♂️で 寄りました。
こんな公園があるなんて羨ましい!明智光秀の陣だったかは?不明。
推定で全長約180mと乙訓地域で最大の前方後円墳です。
大王の古墳が奈良から大阪へ移った5世紀前半の古墳でヤマト王権の生命線に当たる重要な場所ですので有力な首長が埋葬されていたのでしょう。
戦国時代には山崎の合戦で三成の本陣が置かれたり、江戸時代には墓地だったりと古墳の主が埋葬された石室は失われていますが前方部からは多数の鉄製武器類の副葬品が出土していて埴輪などと共に長岡京市埋蔵文化財センターで一部が見ることが出来きました。
現在は発掘調査から古墳らしい形に復元され遺跡公園となっていますが後円墳部のお墓は残っており公園とは垣根で区分され行き来は出来ません。
古墳時代中期(4世紀末~5世紀末)に築かれた乙訓地域最大の前方後円墳です。
また山崎の合戦の時に、明智光秀が本陣を置いた場所ともいわれています。
本陣を置いたといわれている場所は、下植野にある植野古墳群(御坊塚)ともいわれていますが、『明智光秀 残虐と謀略』の著者橋場日明さんはこちらではないかと推測しています。
ではなぜ光秀は勝竜寺城でもなく、御坊塚からも一歩退いたこの場所に本陣を構えたのでしょうか?気になる方は橋場日明著『明智光秀 残虐と謀略』をお読み下さい。
地域最大の古墳。
また、多量の鉄製武器が出土した例は京都府内にはなく、全国的に見ても非常に珍しく貴重である。
乙訓地域で埴輪が埋葬された様子が再現されているのはここだけでは?遊具はないものの子供と遊ぶにはいい感じ。
バットやゴルフクラブの使用は禁止されているが、キャッチボールは大丈夫みたい。
古墳の最上部まで上がると見晴らし良く、明智光秀が陣を敷いたのはこことの説も説得力あるような。
前方部に一般のお墓があり、なんとも不思議な雰囲気。
古墳に登れます。
コーフンシマス(ワラ後円部はお墓になっていて関係者以外は入れないようです。
前方部は三段になっていて一番上まで登ることができます。
とてもきれいに整備されていること、並べられている埴輪もキレイにされていることから、地域の皆さんが大事にされていることが伝わってきます。
天気の良い日に子どもと散歩するのにちょうど良い場所です。
夕方以降は沢山の子ども達で賑わっています。
勝龍寺城から歩いて10分程度で到着する、比較的小規模な前方後円墳です。
天王山の戦いの際、明智光秀が本陣を置いたといわれています。
実際、古墳から天王山を望むことができます。
今は周囲を含めて公園としてとてもキレイに整備されています。
私たちが訪れた時も、小さな子供を連れたお母さんたちや、子供とキャッチボールをしているお父さんたちがいました。
世界遺産に登録されたような古墳とは少しイメージや規模が異なりますが、それでもこの付近では最大級の古墳であり、40年ほど前には太刀や剣などが大量に出土したようで、それをきっかけに整備が始まったとのことでした。
なお、後円部の頂上付近は一般の墓地になっています。
▪️前回の訪問時より、古墳公園エリアが 拡大しスッキリしているような~!?▪️是非とも、午前中の古墳の表情が見たく 10時に到着しました。
河向こうには勝竜寺城も有り歴史感あふれるエリアです。
駐車場やトイレも無いようですが、それでも わざわざ脚を運ぶ価値はあるもので、綺麗に整備された前方後円墳は、隣接する学童の格好の遊び場になっていて 開放感ある公園内は活気ある子供達の歓声が溢れていました。
立派な大きさもある前方後円墳でした。
後円部の上にはお墓がありました、まさにお墓の上にお墓ですね。
今城塚古墳を小ぶりにしたような、きれいに整備された公園です。
びっくりしたことが二つ。
一つは段丘の地面の部分にコンクリートが打ってあった事。
法面の部分は土に草が生えていて遠目では分かりませんでした。
もう一つは古墳上段の半分に普通にお墓が立っていた事。
つまり一般的な墓地なのです。
古墳けっこう見てきましたがこんなの初めてです。
勝竜寺公園のすぐ近くなのでセットで見に来ると良いです。
道がわかりづらいので注意です。
山崎の合戦で有名です。
マジで最高っすね!!!死ぬまで遊べまっす!!!
古墳の上を歩ける?歩けるんだなぁ♪
美しく整備されてます。
公園になっていて、上を歩ける古墳です。
あちこちに解説板があり、休憩所(東屋)にはパンフレットもありました。
上の一部は墓地なので、そこには関係者しか入れません。
名前 |
恵解山古墳 |
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ジャンル |
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電話番号 |
075-954-3557 |
住所 |
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営業時間 |
[月火水木金土日] 24時間営業 |
関連サイト | |
評価 |
4.0 |
周辺のオススメ

駐車場、トイレありませんが、ベンチあります。
埴輪が並んでいて古代の趣きを彷彿させています。