何度か史跡巡りをしに訪れています。
説明を聞いていて 初めて ここの 価値が理解出来ました。
超有名な神社⛩の名前の玉垣が 並んでいました。
「物部守屋大連墳」もののべのもりやおおむらじふん といいます。
今年は6/13 墓前祭が行われました。
新Yaomania 2021夏号vol.39参照。
普通に通ってたら気づかないかも。
今里から自転車で行きました八尾と言ったら、今東光作、悪名,勝新,田宮二郎演じる朝吉,清二しか知らなかったのですが、歴史に有名な物部守屋の墓が有ると知り,訪れました、石切さんに祀られる、饒速日命の一族で大変な力お持っていたらしですね、もののふ、と云う言葉も、物部から出た言葉らしいですね、四天王寺には良く行きます、22日は守屋堂が見れます、今でも、物部守屋は生きてます、実際名前は変わってますが、物部の子孫達は榮てます⭕⭕
自動車道沿いにひっそりとあり、史跡がそこらじゅうにある近畿圏ならではの風景のように思います。
地方が地方なら、観光地化を前提とした周辺整備がなされているのではないでしょうか。
周辺には丁未の変の関連史跡がほかにも多く遺されています。
何度か史跡巡りをしに訪れています。
すぐ近くまでは行けないのですが、綺麗に整備されていて大切にされているのだなあと感じました。
約1400年前に、聖徳太子が排仏派・物部守屋を、その本拠地・河内渋川で破って仏教を取り入れる事になった大聖勝軍寺のすぐ東に、敗れた物部守屋の墓があり、その墳墓を賀茂御祖神社や熊野那智大社・富岡八幡宮など全国の有力神社から寄進された瑞垣が守っている事です。
悔しかったんでしょうね神道筋は。
何度か史跡巡りをしに訪れています。
すぐ近くまでは行けないのですが、綺麗に整備されていて大切にされているのだなあと感じました。
墓の無い人生は儚い。
歴史で学ぶ丁未の乱。
物部守屋vs聖徳太子、蘇我馬子で有名だ。
この辺りは守屋の史跡が多数あることから激戦地だったのだろう。
守屋の首を洗った守屋池もある。
歴史を戻しタイムスリップすれば両軍の人馬のざわめき、叫喚がこの地を覆い尽くしたに違いない。
いま守屋の墳墓を訪れても、彼は沈黙したままなにも語らない。
守屋を守る玉垣。
彼が守った神道、神社群は今も健在、守屋の目的は半分以上達成された。
交通量が非常に多い国道25号の脇にひっそりとある史跡。
玉垣には誰もが知るような有名な神社が名を連ねており、それだけでも壮観です。
とても小さな境内ですが、常に綺麗に掃き清められています。
◆― 物部守屋(弓削大連) ―◆ 饒速日命を祖とする古代豪族。
日本古来の天照大神を主神とする神道の敬神派。
◆仏教伝来以降、朝廷にも仏教が徐々に浸透し、これに危機感を抱いた守屋は神道保護の立場から崇仏派の蘇我馬子と対立。
用明天皇崩御の後、次の皇位に守屋が推した穴穂部皇子,宅部皇子らを馬子が殺害したことに端を発し、炊屋姫(後の推古天皇)の詔で勃発した 丁未の乱(587年)で迹見赤檮の放った矢に射殺された。
以後、仏教が隆盛となり物部氏は衰退したが、子孫には弓削道鏡がいる。
(※排仏派は崇仏派からの呼称)
近くの渋川廃寺跡の発掘で「本当に排仏派だったのか?」と疑問視されている物部守屋ではあるが、周りには名だたる神社の玉垣に囲まれている立派な墳墓である。
負けた側の歴史は書き換えられるというが、歴史のミステリーはこういった事から起きる。
この守屋墳は、毎年6月中旬又は下旬の日曜に玉垣に記されている神社の持ち回り数社で守屋公として慰霊をされているが、時おり関係者による掃除がなされているので、常に綺麗に保たれている。
秦河勝に首を討ち取られた守屋ではあるが、この整備された墳墓を見ると、首を討ち取った側の秦河勝の墓(寝屋川市 川勝町2-22)の扱いが気の毒になるくらいだ。
また、ここより西には大聖勝軍寺の門前に守屋の首を洗ったと伝えられる守屋池がある。
この守屋墳と西にある聖徳太子による大聖勝軍寺に訪れると、その東西の方角から守屋の怨霊と聖徳太子による『四天王寺の鷹』を想起させる。
神社を尊び排仏派として蘇我氏と対立した物部守屋らしく、玉垣(神社・神域の周囲にめぐらされる垣)には、有名な神社の名前が刻ませている。
国道25号線沿いにひっそりとたたずむ小さな墳墓。
歴史の教科書にも載るような人物の墓にしてはあまりにも小さすぎるような気がします。
しかし、玉串には全国の有名な神社の名前が記されているところを見ると、現代にも大きな影響を与えている人であったことがよくわかります。
物部守屋の墓とは! 守屋を射た弓の塚があり、その写真ものせておきます。
名前 |
物部守屋墳 |
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ジャンル |
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住所 |
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関連サイト | |
評価 |
4.0 |
幹線道路に面した場所にあります。
丁未の乱で聖徳太子、蘇我馬子らに討たれた物部守屋の墓と云われています。
これにより、物部氏本宗家は滅びるのですが、聖徳太子古戦場の石碑から30メートル程の所にあるため、丁未の乱の関係史跡を一気に巡ることができます。