駐車場は正面ではなく裏手にありました。
大嶋神社・奥津嶋神社 / / .
ムベという果実を知ったのを機に、こちらで奉納されているということで参拝させていただきました。
雰囲気の良い神社でした。
かなり歴史の有る感じでした。
明るくて広い境内、地域の信仰も集めておられるようでした。
むべ(植物)が有名です。
建物の両端に鳥居があり、正面には大きな池がある少し変わった神社です。
建物はとても立派です。
小さな町なのですが、ずいぶん立派な神社があります。
訪問した日の早朝がびっくり寒かったので池が一面凍ってました。
駐車場は正面ではなく裏手にありました。
池もあり立派な神社です。
大嶋神社・奥津嶋神社おおしまじんじゃおきつしまじんじゃ滋賀県近江八幡市北津田町529ふたつの神社がありますが双方とも式内社祭神大国主神奥津島比売命社格式内社(名神大・小社)奥津嶋の名の通り近江八幡市から琵琶湖に向かいその琵琶湖の岸辺に鎮座しています社伝によると成務天皇の治世に武内宿禰により勧請。
地元で大切にされている感じの神社です。
駐車場は裏手にあります。
『ホツマツタヱ25アヤ』 ヒコミコト チ を ゑる(得る)のアヤより。
31スス23年のツウヱ(23年)ウツキ(4月)ハヒ(ハツヒ・一日)のことでした。
ワケイカツチのアマキミの称号を名乗る事になったニニキネさんは、深きある思いに辿りつかれたのでした。
それは、新たに、ミヤ(首都)を作るべきであるとのお考えでした。
ミツホのミヤと命名されたミヤコは、オオシマ(大嶋神社、滋賀県近江八幡市北津田町)さんに造営をお任せになりました。
ミツホのミヤの現在地考証は未詳です。
おそらく、湖東であったようです。
ミツホのミヤの完成後に、ニニキネさん(ワケイカツチのアマキミ)は遷都をなさろうとします。
その、遷都の実行の前にアマテルカミに報告をしようとなさいます。
『ホツマツタヱ』 25アヤ日本 ヲシテ研究所 「ヲシテ文献 大意」 解説文(C) 池田 満無断転載を禁じます。
駐車場あり。
大嶋神社奥津嶋神社(おおしまじんじゃおきつしまじんじゃ)は、滋賀県近江八幡市北津田町に鎮座する神社である。
大嶋神社と奥津嶋神社の両社から成るが、ともに式内社である。
旧社格は県社。
社伝によると、成務天皇の治世に武内宿禰により勧請されたとされる。
大嶋神社と奥津嶋神社は元は別の場所に鎮座していたが、延文6年(1361年)以前に同地に鎮座された。
大嶋神社は式内小社、奥津嶋神社は名神大社論社である。
『三代実録』によると、貞観元年(859年)、従五位上の神階を賜ったとの記述がある。
小さな村の神社としては似つかわしくないくらいの歴史のある立派な神社。
なんでも成務天皇の頃に武内宿禰が勧請したとか。
私は白洲正子さんの「近江山河抄」を読んでこの神社を訪れたのだが、白洲さんはかなり大胆な仮説を立てていて、かつて沖の島を奥宮、神の島とする信仰形態がかつてあって、ここ大嶋奥津嶋神社がその里宮だった、そして日牟禮八幡宮が田宮だったのではないか、とする。
もっと言えば、この信仰は九州の宗像大社の写しであり、沖の島がそのまま沖ノ島、大嶋奥津嶋神社が中津宮、そして日牟禮八幡宮が辺津宮だったのでは、とする。
そう考えるとこの立派な社がこんな辺鄙なところにあるのも頷ける。
沖の島から日牟禮八幡宮までの一直線の立体曼荼羅を形成する、重要なポイントとして存在しているのかもしれない。
びわ湖の内湖を埋め立てる前は、ここの神社を参るのに船を使ってたらしいです。
歴史の古い神社です。
社の前にため池があるのが特徴的でした。
境内に草が生えていたので、もう少し手入れして欲しいですね。
由緒ある神社なので。
びわ湖を埋め立てる前は、ここの神社を参るのに船を使ってたらしいです。
歴史の古い神社です。
社の前にため池があるのが、特徴的でした。
境内に草が生えていたので、もう少し手入れして欲しいですね。
由緒ある神社なので。
名前 |
大嶋神社・奥津嶋神社 |
---|---|
ジャンル |
|
電話番号 |
0748-32-8281 |
住所 |
|
関連サイト | |
評価 |
4.2 |
氏子総代として昨年から3年間大嶋奥津嶋神社、若宮神社、百々神社、若神子の神社を担当します。
島町、北津田町から各3名の氏子総代で祭事、維持管理に務めます。