名前 |
栗見大宮天神社 |
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ジャンル |
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住所 |
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関連サイト | |
評価 |
4.5 |
社伝によれば奈良後期の神亀年間比良山の比良明神がきらめく金光に乗って湖上を渡り、後に本社地となった「牧の浜」に下りたヽれた。
此の時夜の内に松樹繁茂する奇瑞を現はした。
当時の祖先氏子中が本庄村(現彦根市本庄町)に御神霊を祀り、後に栗見12郷の氏神産土神となった。
菅原道真公と応神天皇は後世合祀する。
平安後期の長徳2年愛知川村の東部で愛知川南堤が決潰し、濁流は南に奔流概ね現在の川筋に変った。
この出水により本社は流れて現在地に漂着、当時12郷の氏子たちは神慮を恐れて社伝の復興をしなかった。
故に一般に本社の創建を長徳2年としているが、創建の実際は神亀年間である。
往昔の当社の規模は壮大なものであったものの如く明暦年間、神学者亀有雪斎の社歴には「栗見大宮は国家を鎮護する聖廟である、梅馬場、桜馬場、神殿、鐘楼、楼門立並び、貴人・文人・墨客参詣者踵を接して参詣…祭礼は毎年4月寅の翌朝6社の神輿が鈴を鳴し、榊の幣、鉄棒に花を飾り、金豐の警固武者等威儀凛然云々」とあり、又淡海温故録には「昔は大宮の御祭りは式にのっとり大そうなものであり、太鼓や鉦を打ちはやし、湖岸まで御旅をするなど7日7夜もかかった…」とも書かれていて、此れ等により当時の地域尊崇を偲ぶことができる。
併し戦国時代を経て幾多の兵乱により社殿悉く焼失し現在の本殿は延享年間江戸中期の造営と推定される。
幣殿鳥居は昭和11年に建設した。
境外に宮城神社あり、祭礼の時は大宮の御神霊がお遷りになり、終って御還御になる。
祭神は栗見大宮天神社と同一。