こちらは二つある石碑のうちの一つです。
勝幡城跡 織田弾正忠平朝臣信定古城蹟 / / .
信長公誕生地とされています。
石碑と説明看板があります。
織田信長の祖父、勝幡城を築いたとされる信定の名前が記載された石碑があります。
それ以外は何もありません。
駐車場もありません。
川沿いの道に停めるしかないですね。
あまり車が通らない道です。
信長生誕の地。
地図と地面の案内マークでたどり着くべし。
勝幡駅には、父信秀と母土田御前に抱かれた吉法師の銅像あり。
他にも勝幡城跡の石碑がある場所がありますが、いつからあるか表示がされたかわからないけど、その近くの地面に勝幡城跡290mと矢印が表示してあるのに気づいて行ってみたら、日光川沿いにもう1つ勝幡城跡の石碑がある場所があるのを知って、ここを訪れました。
元々知っていた場所は、信長が勝幡城で生まれたことを広めようしている会(団体)が管理ですが、こちらは稲沢市教育委員会が管理で、以前からありながらも、上りも立っていても木陰の中ということで、あまり目立たず、自分も気付かなかったですが、最近勝幡城が信長生誕の城と話題になってきたことで、稲沢市も力を入れるようになったようで、ここだけでなく両方の石碑に、信長u003d勝幡城ということで、多くの人に来てほしいですねー!ただ、こちらは木に囲まれている場所なので、蚊がかなり多いのでご注意が必要ですね!
名古屋鉄道津島線の勝幡駅から北側約1キロ程の日光川左岸にある民家の裏庭の様な古城跡です。
此方の跡地から数百メートル先にも城跡石碑があり、河川堤防を散策して、河川の中にあったお城🏯を想像してみて下さい😆
こちらは二つある石碑のうちの一つです。
裏には建てた人の名前が彫られています。
ということは、こちらの石碑は個人によって建てられたということでしょうか?それにしても城の痕跡が何もないというのは、本当に寂しいですね。
江戸時代の河川改修によって城跡の真ん中に日光川を通してしてしまったそうですが、せめて産湯の井戸ぐらい残しておいてほしかったと思います。
秀吉、家康のものは残っているのに…何はともあれ、稲沢市と信長の関係について知りたい方は稲沢市が発行している『信長と稲沢』という小冊子をどうぞ。
永正年中(1504~1521)に、織田信定によって築かれた。
その子信秀は、勝幡城で生まれ、尾張守斯波氏の三奉行として清州城に出仕した。
信秀の子、織田信長も勝幡城で生まれたという説が有力(他に那古野城、古渡城の3説あり)。
母である土田御前と信秀に抱かれた吉法師(信長の幼名)像が勝幡駅前にできた。
城の中心は平和町城西(現在の城之内)付近と推定され、碑のあるあたりは城跡の南端部分と考えられているとのこと。
信秀の勢力が尾張拡大する前の大切な拠点であり、もっと取り上げていただきたいと思います。
本丸は日光川の中で歩道橋辺りです。
東西の地形は痕跡を良く残しています。
北の石碑は二重堀の中堤の上です。
川沿いに歩いて来ましたが石碑を見に行く為の階段等見当たらず、土手を降りたのですが雨上がりなどは滑りそう。
場所も近づかないとわかりにくい。
こちらが城跡だと思っていましたが近くにもう1つあるので詳細は不明です。
小さな場所に石碑があり木が数本。
緑に飲み込まれそうになっている場所です。
諸行無常感がいいです。
歴史を感じさせてくれます駐車場はありません勝幡駅から歩くことをオススメ。
歴史を感じさせてくれます駐車場はありません 勝幡駅から歩くことをオススメ。
織田信長出生地とされている勝幡城跡。
城跡の石碑はふたつあって、こちらはそのうちのひとつ。
正直言って、こちらは整備されているとは言い難い。
川の堤防上から石碑らしきものを確認したが、そこへの道も草むらのようだった。
せめて、堤防上に案内板くらいあってもいいと思う。
織田信長の生まれたとろこです、城跡は住宅地で碑がありますが分かりにくい。
清須三奉行家の1つ弾正忠家の主城、勝幡城跡勝幡織田氏は信長の代に守護代の清洲織田氏、岩倉織田氏を破り守護の斯波義銀を追放、尾張統一を成し遂げる。
名前 |
勝幡城跡 織田弾正忠平朝臣信定古城蹟 |
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ジャンル |
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電話番号 |
0587-22-1414 |
住所 |
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営業時間 |
[月火水木金土日] 24時間営業 |
関連サイト | |
評価 |
3.2 |
解りずらい場所にありました、もっと整備するといいと思いました。