昔は、天白や富田より偏差値の高い高校でした。
愛知県立惟信高等学校 / / .
向上心がモットーの学校です。
(受験で使える)⚠️警戒⚠️2018年3月卒業のOBOGの間でネズミ講勧誘が流行しています。
当該年度のOBOGはもちろん、他年度の方々、在校生諸君、警戒されたし。
最寄り停留所は「惟信高校正門」停(学校の北西側)。
他には惟信高校(学校の南側)、惟信町(甚兵衛通沿い)など。
惟信高校正門停は、市電時代の電停の名残があるので立ち寄った際には是非ご覧になってください。
昔は、天白や富田より偏差値の高い高校でした。
暴走族が居る学校です。
退学しろよと思います。
良い迷惑。
同校は1925年に創立され、2025年に、創立100年を迎え、同一名で同一地に存在する伝統校である。
当時名古屋市は今の規模の半分くらいで、同校所在地は1921年に名古屋市に編入されている。
従って創立時には旧制中学は愛知一中しか無く、通称名古屋二中と、呼ばれていたと聞き及んでいる。
同校の長い歴史の中でも特筆されるのは、1944年からの大平洋戦争末期の学徒勤労動員で名古屋の南部工業地帯の各工場に同校生徒も動員されていた。
1945年6月9日アメリカ軍の熱田大空襲で、愛知時計電機船方工場において生徒5名引率教員1名計6名が犠牲となった。
同校には10年後、当時の同級生らが犠牲者の霊を弔う為慰霊の碑を建設した(永遠の碑)ある。
熱田大空襲の被災実態をまとめた佐藤明夫氏の2004年刊行「哀惜1000人の青春」の中の一節には「熱田大空襲の被害学校で学徒死亡者を悼む記念碑が建立されたのは惟信高校だけである」とある。
歴代校長先生・教職員・同窓会幹事の皆さんの労は多としながらも如何せんアピール・宣伝が足りない、学業の向上と共に、この反戦平和の伝統を大いに活用して欲しいものだ。
同校は一時中川高校(松蔭高校)と合併したり、愛知時計電機船方工場の跡地に設立された(熱田高校)と学校群を形成していた。
これも何かの縁であろうか?、かくいう私も卒業生の一人であるが、当時の学校周辺は一色電車が走り、庄内川には葦の葉が揺れ、のどかな田園が広がるまさしく「田舎の学校」であったが、今は様変わりして住宅に囲まれた「都会の学校」になっている。
投稿する写真は60年代の同校校内の写真であるが、様変わりしてないのは近年文化財に指定された「校門」ぐらいであろうか。
因みに惟信(いしん)の名は所在地から命名されたのであるが、同地は干拓地で甚兵衛新田の一部であったが、所在地周辺の土地区画事業を推進した服部善之助の諱である惟信(これのぶ)にちなんで命名されたが、1942年に呼び名を音読みの(いしん)と変更されている。
向上心がモットーの学校です。
バス停は、惟信高校正門停,惟信高校停,惟信町停,弁天町停,多加良浦停,明徳橋停などです。
年々少しずつではありますが、偏差値等の上昇は見られるそうです。
惟信高校正門停は、市電時代の電停の名残があるので立ち寄った際には是非ご覧になってください。
昔は群高校だった。
思い出の学び舎。
名前 |
愛知県立惟信高等学校 |
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ジャンル |
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電話番号 |
052-382-1355 |
住所 |
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関連サイト | |
評価 |
2.9 |
腐っても名門。
大正時代から存在する高校です。
ズバリ言うと私の母校です。
小室ファミリー全盛期の時代、私はここの生徒でした。
校則は伝統校らしくとてもゆるく制服こそは着ていましたがあとは自由そのものでした。
弱いものには手を差し伸べる、他人を思いやる。
そんな風潮がここにはあった時思います。
名古屋市内の他の伝統校に比べると格が何段階も落ちると思いますが、私はここを出たことを誇りに思ってます。
その昔は市電が通っていたらしいですが、今は市バスだけです。
生徒の大半は自転車通学。
地元の子しかいかない高校になってしまい、少子化でついに定員割れに。
柊の校章が泣いています。
名門復活のために惟信OBの校長先生が一生懸命になっていただいてますが交通インフラの整備もしてくれないと流石に苦しいかもしれません。
制服はマイナーチェンジしましたが以前のデザインの方が好きですね。